たいらくんの政治経済。

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2014/04/28

死刑制度の考え方



エジプトの裁判所は4月28日付で、ムハンマド・モルシ前大統領の支持母体であるムスリム同胞団の最高指導者、ムハンマド・バディア氏を含む683名の同胞団関係者に死刑を宣告。既に身柄を拘束されている50名を除く大半の関係者が未だ逃亡中の状態での裁判は、529名の大統領支持派に死刑を宣告し国際的な非難を浴びた前回の裁判に引き続き注目を集めている。民主化運動の過程で混乱状態が続いたエジプトでは、独裁国家時代の「悪人」の処遇を巡っての論争が止まらない。

国ごとに司法制度は異なるが、最も厳しい刑罰である死刑の定義は然程漠然としたものではない。仮に、死刑を「特定の罪を犯した人を、適正な司法手続と公正な判決に従い、国家が主体となって処刑する刑罰」と定義すれば、これは全く珍しいものではない。しばしば話題となるのは、刑罰としての死刑をどのように解釈していくかという問題。人権重視の動きから死刑制度を廃止する国が増える中で、死刑を存置する国も死刑を廃止する国も、死刑制度そのものをどのように正当化・不当化するのかという議論は、未だ双方とも十分合理的といえる結論に至っていない。

アムネスティ・インターナショナルは先月、2013年の世界の死刑執行状況についての報告書を公開。それによれば、これまで減少傾向にあった死刑執行が、2013年になって15%増加。死刑執行を受け、処刑された人の数が100名以上増えたという。アムネスティが各国政府の公式資料をまとめたところ、イラン(執行数369件以上)とイラク(169件以上)の中東2カ国がそれぞれ死刑執行数上位を占めた。一般に、世界で最も死刑を執行しているといわれる中国の場合、公式な統計資料がないため数値はあくまで確実性を欠いた予想の域を出ない。

アムネスティのような人権団体はもちろん、多くの欧州諸国でも死刑を「国家による殺人」として非難する声が強まっている。欧州を中心に、世界141カ国で死刑制度そのものを廃止もしくは事実上の廃止(死刑執行の停止)とする国が増える一方で、日本を含む死刑存置国の中には、国民レベルで制度を強く支持する国も存在する。政府資料で国民の8割近くが死刑制度を支持していることが判明している日本では、昨年、奈良小1女児殺害事件や大阪連続強盗殺人事件の犯人を含む8名の死刑囚の刑が執行がされている。

死刑廃止派の多くは、以下3つの考えに基づいてる場合が多い。1つ目は、「命の価値」である。誰にとっても人の命は貴重なもの。廃止派の中には、例え凶悪な犯罪者であっても、その命には他の命と全く等しい価値があると主張するものもいる。2つ目は、「生きる権利」。日本国憲法を含む多くの国の憲法は所謂「生存権」を明文化した項目が必ずといって良いほど含まれている。人として生まれた瞬間から人は生きる権利を保有するが故に、例え重罪を犯した人であっても生きる権利までも奪うことはできないといった主張が代表的だ。最後に、「冤罪の可能性」。世界で最も優秀な警察組織と高い有罪率を誇る検察、公正な司法制度を誇る日本であってもかつて死刑を宣告された人の中で後に冤罪が発覚したケースが少なくない。十分な司法手続のない国においてはとりわけ死刑制度の問題点が最大化されやすい。

他にも、「犯罪者の一部には全く更生余地のない」と考えられることや存置派が度々訴える「死刑制度の犯罪抑止力」の否定、「死刑に係る経費の高さ」等を挙げる場合もあるが、これらは比較的根拠に欠けると考えられている。とりわけ死刑に係る経費については、1995年に米国オクラホマ州で発生した連邦政府ビル爆破事件の主犯、ティモシー・マクベイ死刑囚の刑執行に総額13億円近い費用がかかったことを例に挙げる場合があるが、必ずしも全てのケースに適用されるとは言えない上に、死刑以外の刑罰の費用とに有意な差があると結論付けるのは少し無理があるようにも思える。

一方で、存置派の多くは、「社会的報復としての機能」や死刑制度がもつ「犯罪抑止力」、「究極的な更生方法」としての死刑、「再犯可能性の除去」等に基づく。社会的報復としての機能は、恐らく存置派の主張の中で最も明確なものの1つだろう。目には目をで有名なハンムラビ法典の根本原理にもあるように、殺人のような凶悪犯罪を犯した人物が、適正な法手続を経た上で死刑となるのという点に全く問題はないと存置派は言う。だが、仮にハンムラビ法典により正確に従うとすれば、一人を殺した人は死刑に値すると言えるものの、強姦や国家反逆罪、その他考え得る他の凶悪犯罪についての処遇には議論の余地がある上、殺人を犯した犯人を処刑することは、殺人を殺人で咎めてることになってしまう。もっとも、報復としての機能自体については廃止派すら理解している。その上で、廃止派は刑の本質的な残虐性や不可逆性へと論を展開していく。

とりわけ興味深いのは、死刑を「究極的な更生方法」や「再犯可能性の除去」の手段としてみる後者の論理だろう。死刑囚の中には、執行日に涙を流す者もいるという。死刑を目前にした恐怖とも考え得るが、元刑務官らの証言等には自らの罪を悔い改める者も少なくないという。その意味で、死刑を最後の更生機会として捉えることができると存置派は信じている。加えて、凶悪犯罪者を処刑することでそれ以上の危険を除去することができる。再犯可能性の除去として効果を持つと訴える人の中には、長期刑の囚人が短期刑の囚人と比べ刑務所内での暴力的なトラブルが多いことや仮釈放後の再犯率が高いこと等も根拠としている。存置派の多くが、死刑に更なる犯罪発生を抑止する効果があると述べる一方で、廃止派は死刑の犯罪抑止力は限定的か、全くないと主張する。これまで様々な統計調査や社会学的アプローチ等で死刑の犯罪抑止力について研究が行われてきたが、今のところ、死刑に犯罪抑止力があるともないとも言えないのが現状だ。一部の国では死刑廃止後犯罪率が低下したケースもあるが、その逆のケースもある。死刑制度と犯罪の関係性を証明することはそう簡単ではない。

エジプトの集団裁判での大量の死刑宣告や、度々メディアで報道される信じられない程残虐な凶悪犯罪の発生は、死刑制度自体を再考する良い機会となる。死刑を廃止するべきだと考えるのであればなぜ廃止するべきなのか、死刑を存置するべきだと考えるのであればなぜ存置するべきなのか、こうした議論に思考を巡らせることには十分な価値があるだろう。ちなみに、メリーランド大学の教授が行った調査に、凶悪犯罪の裁判映像を観た被験者と死刑制度の残酷さを訴える映像を観た被験者で死刑制度の是非を問うたものがあるが、結果は前者の半数以上が死刑制度を支持する一方で、後者は8割以上の人々が死刑反対の考えを明確にしている。

結局のところ、犯罪を身近に経験する者ほど死刑の有効性を認識しやすい一方で、制度そのものの残虐性について学べば学ぶ程疑いの目が強くなるということだろうか。犯罪率が極めて低い日本で、これほどまでに死刑が支持される背景には、国民の死刑制度そのものへの信頼の高さと凶悪犯罪者への社会的非難の強さがあるからかもしれない。どちらの立場に立っても、犯罪そのものが非難に値する反社会的行為であること自体は変わりない。

教育の機会均等は達成可能?



先月24日に放送されたテレ朝系の人気番組「ビートたけしのTVタックル」でのたけしの発言が話題になっている。番組中でたけしは、「結局、貧乏人のせがれは、あらゆるチャンスがない」「生まれながらに逆転できないっていうシステムができたんじゃないか」と、格差社会における問題点を指摘した他、自身が以前別番組で共演した東大生の親が高収入である点や東大のOBOG等恵まれた環境であることも明かした。 

事実、 東大家庭教師友の会が2009年に実施したアンケート調査によると、51.8%の学生の親の年収が950万円以上であることが分かっている。一方で、厚生労働省が昨年発表した国民生活基礎調査では、1世帯当たりの平均所得は548万円。つまり、半数以上の東大生は世帯平均所得の倍近く稼ぐ裕福な家庭に生まれた子供ということになる。同様な傾向は、東大に限らず国公私立の上位校や医学部等学費の高い難関校や専門校等でも一律に見られる。 

日本では不幸なことに、法律の文言では美しい理想が述べられていても現実は相当な困難を伴う状況であることが少なくない。教育基本法3条では、「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。」と社会的身分や経済状況が悪くとも能力に応じた教育が保証される旨明記されているが、現実はそう上手く機能していない。 

教育と社会階級の研究で有名なフランスの社会学者、ピエール・ブルデューはかつて、日常的規範(Habitus)の認識率と文化資本(Capital)の保有率の高い学生ほど高学歴であることを統計的に証明している。これは、単なる高所得者の家庭に生まれた子供が高学歴というのではなく、高所得者が持つ豊富な知識や経験、その他所得格差がもたらす社会階級的差異が子供に継承されることで、その子供も同様な高い社会的地位を獲得するというもの。ブルデューは、多くの高所得者がもつ特権的な資本を「社会資本」と名付け、更に社会資本の世代間継承に教育機関が果たす重要な役割についても言及している。 

ブルデューのいう日常的規範とは、所得の多い家庭の人々が日常生活で経験する様々な事柄一般を指す。例えば、日本を含む多くの国々では高所得者層ほど毎日の食事に関する栄養学的知識や食生活のバランスや運動頻度の水準が高いことも日々の経験に基づく日常的規範に起因する。他にも、英国で特に顕著なように、高所得者層ほど高級紙や経済紙を熱心に読む一方で、低所得者層ほどタブロイド紙やゴシップ雑誌を好む。こうした日常的規範の差異による家庭環境の違いは、子供の成長にも大きな影響を与えるというのがブルデューの主張だ。 

もっと分かりやすい例として、日本人の多くが苦手とする英語力と収入との関係が挙げられる。英語能力が個人の所得に与える影響を計量経済学的に分析した東京工業大学大学院社会理工学研究科の古谷直紀氏の論文では、「英会話力と英読解力共に所得に正の影響を持つ英語能力である」と結論付けられている。 

結局のところ、高水準の日常的規範と文化資本を有する高所得層の子供ほど高等教育にアクセスしやすくなるという構図は、教育基本法が目指す理想と乖離しているといえる。十分な天然資源を持たず、長く化石燃料の多くを海外からの輸入に依存している日本では、高度な技術水準を維持することで世界最高水準の経済力を維持してきた。潤沢な教育資源を活用した日本人全体の教育水準向上は、こうした高い技術水準を維持する上で不可欠な要素となるはずだが、国の富は国民に広く分配されるどころか、高所得者層に還元されている。 

こうした高所得者層の子供がまた高所得者層となる構造を、ブルデューは文化的再生産(Cultural Reproduction)と呼んだ。グローバル化が進み、国際間競争が激化する中で、急激に所得格差が広がる日本。最も成功した社会主義国的な国家で一億総中流とまで言われた日本は、アメリカと同様、不平等なスタートラインに無理矢理立たせられる過激な競争社会へと変貌しつつあるのもしれない。 

ではどうすればこうした状況を回避できるのだろうか。資本主義の信奉者であれば、問題にすらしないこの社会的格差を是正するとすれば、政府による教育セクターへの積極的な投資以外方法は考えられない。急激な高齢社会化による労働者不足が予想される日本では、労働者1人あたりの生産力向上が達成すべき課題の1つとなる。そのためには、たとえ経済的に恵まれない子供たちであっても高等学校や大学を含む高等教育へのアクセスが保証されなければならない。 

ところが、政府や地方公共団体による無償の教育制度は貧相で、貸与型の奨学金制度も少ない。公立の取り立て組織と揶揄される学生支援機構の支援制度も、経済基盤の弱い家庭の子供の将来的負担になるばかりで、実質的に学生を支援しているのかは甚だ疑問だ。 

改善のヒントは、世界で最も高水準の教育システムを採用している北欧諸国の制度にある。無償の教育制度と支援制度の整った北欧諸国は、子供の知力も高い。世界の15歳児童を対象とした学力テストPISAの上位には必ずといってよい程ランクインする北欧諸国は、どれも教育セクターへの出費が国費の多くを占める。政府主導の多額の教育への投資は、国を豊かにし、国民全体に還元される。比較的国民1人あたりの所得が高額なヨーロッパでも突出して高い水準の国民所得を維持する北欧諸国は、まさに日本の教育が目指すべき目標なのかもしれない。

太ることが美とされる国の行き過ぎた習慣



世界三大珍味の1つ、フォアグラ。上品な香りとまろやかは風味は、多くの人々を魅了する。とはいえ、フォアグラの作り方は驚く程残酷だったりする。

フォアグラは必要以上に餌を与えたガチョウの肝臓。ある程度成長したガチョウに消化吸収のしやすい蒸したトウモロコシを漏斗を使って無理矢理流し込む。これを繰り返されたガチョウの肝臓は悲鳴をあげながら脂肪肝の状態になる。

こうした飼育方法をガバージュフィーディング(gavage feeding)と呼ぶが、ある国ではこのガバージュフィーディングを若い女の子に強制しているのだ。

アフリカ北西部のイスラム国家モーリタニアでは、10代になった女性を少しでも裕福な家の嫁に出すために、身近な食材の中でも比較的高カロリーなラクダの乳に砂糖を加えた液体を無理矢理飲ませて太らせる。

肥満を美しさの最も重要な要素に位置づける国に生きるモーリタニア女性は、食事というよりも拷問に近いガバージュを乗り越え結婚を迎えていく。

当然、ガバージュが直接的間接的を問わず身体に与える影響は少なくなく、酷い場合だと食事中に喉が詰まって窒息死するケースもあるほどだという。

ガバージュを強いられたモーリタニア女性には抗う術がない。食事を拒否すれば、つま先を木製の万力で潰される。ガバージュから逃れようとしても、ガバージュを受け入れようとしても、危険な状況に陥ることには変わりない。

痩せていることを美とする国もあれば、太っていることを美とする国もある。とりわけ、食べる物に乏しい砂漠地帯の国では、少なからず太ることに価値を見出す慣習が珍しくない。

国が違えば文化も違ってくる。多くの場合、その土地の文化が尊重されるが、当事者が苦しむ文化までも尊重しようとする考えは受け入れ難い。戦後、世界的に女性の地位向上に係る活動が活発化していく中、モーリタニア政府もようやくガバージュ廃止に向けて重い腰を動かし始めていった。

残念なことに、とてつもなく長い伝統を無くすことはそう簡単なことではなくて、依然として若いモーリタニア女性の中には「太りたい願望」をもつ人が少なくないらしい。

日本で殆ど違法な成分不明の痩せ薬が問題となっているのとは対照的に、モーリタニアでは危険な太り薬の流通が止まらない。 美しさを追い求めるのは本能的欲求の1つ。その究極な形をアフリカのイスラム国家の伝統に恐ろしくも生々しく探ることができる。

うどんしか興味ないのに高級百貨店も拉麺築港もいらん



香川県民、とりわけ高松市民にとって特に気にもならないニュースがあった。高松市で最も発展している瓦町に軒を構えていた高松天満屋が遂に来年3月をもって閉店してしまうのだ。

多くの地元民にとって、このニュースは聞けば驚くけれども誰もが納得する。理由は簡単。誰がみたって客は少なく、利益がでているようには見えなかった。

瓦町で圧倒的な存在感を誇るあの建物ができたのは今から16年前の1997年4月23日。地域最大の売り場面積を誇る29500平米で、年間売上目標は300億円。その頃は、天満屋じゃなくてことでんそごうだった。

ちょうどバブルで盛り上がっている頃に計画されて、バブルが弾けた後に開店した時点で察するべきだけど、開店1年目の売上は、目標の8割にも及ばず、次第に店を開けるだけで毎日500万の赤字が出るようになった。

そもそも日本でトップレベルのケチさを発揮する香川県民を相手に百貨店ビジネスが成り立つ訳がない。毎日500万円も赤字を吐きながら香川県民の冷やかしに耐えていたことでんそごうのボランティア活動を引き継いだのが、来年閉店する天満屋なのだ。

香川県民の趣味はうどんと貯蓄。香川県の1世帯当たりの貯蓄残高は全国6位の1863万円。西日本で香川県よりも貯蓄額が多いのは三重県と奈良県しかない。

実収入の少ない三重県や奈良県と違って、多少生活にゆとりのあるはずの香川県民が食費を切り詰めてコツコツ貯蓄してるのはケチだから。1世帯あたりの実収入をみれば、40万円台の三重県や奈良県に住む人々が将来に備えて貯蓄するのはわかる。なのに52万円ある香川県民が収入の少ない県と同じように貯蓄するのはケチだから。そう、香川県民はケチなのだ。

香川県民がブランドに憧れを感じていない訳ではない。何故か、商店街にはシャネルやヴィトン、それに隣県の高級ブランドCOACHまでもが店を出している。

まるでヨーロッパの街並みのように美しく整備された商店街は、香川県民にとっても人気のスポット。そう考えると、商店街と繋がっているあの百貨店が儲からないのはよくわからなくなる。

とはいえ、やっぱりあの百貨店は儲かっていなかった。結局、ことでんそごうは2001年に200億円以上もの負債を抱えて経営破綻した。

そんな毎日開店するだけで赤字がでるボランティア活動に名乗りを上げたのが本日の主役、天満屋なのである。岡山に本店をもつ天満屋が高松に進出したのは、ことでんそごうが破綻した同じ年の9月。その時のキャッチフレーズは、「瓦町、リボーン、舞い降りたのは、新しい時代です」だった。

英語の苦手な香川県民にリボーンの意味が理解されているとは思えないけれども、当初の予想に反して高松天満屋は成功を収めた。2004年には150億円以上の売上を記録。ケチだけど新しいもの好きな香川県民の愛情に包まれて、天満屋はその後も堅調な売上を記録していった。

ところが、それから9年後の今、状況はいつの間にか悲惨なことになっていた。売上は落ち込み、年に何度もキャンペーンセールを繰り返したことで、もはや通常価格で買うのが馬鹿らしく感じてきた香川県民に見捨てられたのだ。

高い家具よりもゆめタウンのニトリ、高い食器や生活用品よりもイオンのトップバリュ。サティにもある映画館すらない天満屋に魅力など皆無だった。あるのはスタバとロフトだけ。地域最強の高級百貨店はいつの間にか高校生ダンス部の溜まり場になってしまった。

こう考えてみると、香川県民に高いものを買わせるなんて間違っているのだ。比較的安いものを何度も買わせた方がいい。安かろう安かろうを求める香川県民に、天満屋なんかいらなかったのだ。

その証拠に、試しに身近な香川県民にオススメのうどん屋を聞くといい。他県の好奇心旺盛な観光客なら誰もが知ってる香川県の高級うどん屋の名前を言う人は殆どいないはず。実家近くのよくわからない大衆うどん屋にしか行ってないのに、高級うどん屋の名前など言えるはずもないのだ。

香川県でうどんが流行ったのは単純に安いから。安いし、何か適当にのせて食べれば味も変わる。何故かサンポートには拉麺築港があるけれど、流行ったのはうどんに飽きた一部の非県民が不思議がって食べにいっただけ。今は拉麺築港に客は殆どいない。

香川県民が何よりも愛するのはお金と安いもの。そんな香川県民に、その両方の要素を持ち合わせない百貨店ビジネスなど成功するはずのない無謀な取り組みだったのかもしれない。

未だ、あの巨大な建物で行われてきた伝統的なボランティア活動を引き継ごうとする者はいない。大阪で言えば、なんばマルイやグランフロントが無くなるようなもの。東京でいえば、渋谷東急や新宿高島屋が無くなるようなもの。

そんなあり得ないことが起こるのが、僕が愛してやまない母なる故郷、香川県なのだ。

異国の地に売られた少女の悲惨な人生



チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅。インド最大の都市、ムンバイにあるこの駅は、壮麗なヴェネツィアゴシックの駅舎で有名だ。

中央改札から出て右側の大通りでオートリキシャを止めて、運転手にカマシプラ地区に向かって欲しいと告げた。案の定、運転手は乗車前に料金を請求してくる。英語の分からないフリをしてとりあえず乗車すれば、運転手も渋々リキシャに跨る。

埃と塵だらけの道路を猛スピードで駆け抜けて、15分程で着いた。ポケットから30ルピーを出すと、運転手は笑いながら両手で100ルピーくれとジェスチャーする。僕は残念そうな顔をしながら30ルピーしか手持ちにないと伝えると、不満そうに受け取った。

カマシプラ地区には、インド最大級の売春街がある。それまでインドの壮大で幻想的な風景ばかり見てきた僕にとって、美しさとは真逆の世界だった。そこは、焼肉用の焼き網のように、いくつもの細い路地が平行に並んでいる。

少し、奥へと進むと見えてくる。通り沿いの建物の壁に寄りかかった何十人もの女性の姿。その後ろにまだ幼そうな少女達が無表情で僕を見てくる。女性は、僕に近づいてきて「500ルピーでどう?」と尋ねてくる。その女性の声は少しも耳に入らない。国連の報告書で読んだ世界が、現実に存在したことにショックを隠せなかった。

そんな僕の姿をみて、その女性は語気を強めて少しずつ値段を下げてきた。450、400、2人で400。僕は立ち止まって、しばらく追いかけてきた彼女に500ルピー札を2枚渡して、また歩き続けた。異様な雰囲気に包まれたその通りを歩きながら、救いのない世界の実態を目に焼きつけることにしたのだ。

急激に成長するインドの大都市では、他の産業と同じように性産業も急拡大している。売春街で働く労働力の需要が高まったことで、性産業に絶えず奴隷を供給してきたインド人ブローカーは国内で賄いきれなくなり、隣国のネパールに目をつけた。

アジアの最貧国の1つ、ネパール。毎日の食事を世話する収入すらないネパールの村に住む人々は、ブローカーの嘘を見抜くことができない。愛する娘が少しでもいい生活ができるのなら、と信じてブローカーに全てを託すのだ。山を越え、国境を越え、長い時間を経てようやく辿り着いた終着の地で幼いネパールの少女達を待っていたのは地獄だった。

こうして連れてこられたネパールの少女の多くは16歳に満たない。日本円にして1回500円ほどで、多い時には1日に25人もの相手をさせられる。不衛生な売春街での行為は身体を蝕み、少女の多くは結核やHIV、そして深刻なSTDに冒されている。言葉も通じない異国の地に連れてこられた少女に、故郷に帰る術はない。

もっと残酷なのは、たとえ奇跡的に故郷に帰れたとしても、村人達は受け入れてくれないのだ。外国人に何度も何度も犯された少女はもはや純粋な存在ではなく、村の恥だとされる。地獄のような日々から解放されても、彼女達に帰る場所などないのだ。

こうした少女達を売春街から解放し、社会復帰する上で必要な教育を施すNPOは少なくない。最も有名なレスキュー・ファウンデーションは、これまでに1000人を超える少女を保護してきた。こうしたNPOは、故郷の村で以前と同じように生活を立て直すことができなくなった彼女達に、人生の新しい選択肢を与えようとしている。

もっとも、それが少女達にとって幸せなのかはわからない。

「英語なんてやればできる!」は嘘



言わずと知れた東進ハイスクールの名物講師、安河内哲也先生の名台詞は嘘かもしれない。TOEIC990、英検1級の他にも、韓国語能力検定1級も取得済み。その天才的な語学力を持つ安河内先生が世に放ったセンセーショナルな台詞は、多くの受験生の注目を浴びた。 

誰だってできる、という言葉に惹かれて東進のテキストを開いた人は少なくないはず。どのテキストでも必ず書かれているのは音読の重要性。確かにこれは新しい視点。中学や高校の英語教師で音読の重要性を殊更訴える先生がどれ程いただろうか。当時の授業を思い返してみても、ただひたすら英単語の意味をノートに書いては問題演習を解いただけの日々。 

グリーン先生にどう見てもペンにしか見えない物体をわざわざ「これはペンですか?」と尋ねることから始まる英語学習は、次第に増えていく使いどころのよく分からない英単語の暗記と非効率すぎて覚える気すら起きない英文法へと発展していき、最後には日本語なら絶対に読まないつまらなすぎる長文読解に続いていく。 

英語の成績はほぼペーパーテストで決まり、音読なんて作業を真剣にした覚えが全くないのだ。流石は東進ハイスクールが誇る人気講師、目の付け所が全然違う!と関心してしまう。だが、安河内流音読学習を続けていくうちにあることに気付いてしまう。それは、単にこれまでの英語学習に音読という作業を加えただけじゃないかということ。視覚的に全く理解できない発音記号を睨んでもいつまで経っても正しい発音ができない。たまに授業で先生にテキストを読み上げるように言われても、せっかく覚えたそれらしい発音で読むことは絶対にしない。流暢な発音はクラスの笑いものにされ、意図的にカタカナ英語で読むことがクラスの英語の授業における暗黙のルールになってしまう。 

結局中学高校の6年間を通して得た英語力の内訳の大半は英単語で、後はちょっとした英文法で占められてしまう。でも、面白いことにこれさえあればセンター試験はもちろん東大の2次だって合格点がとれてしまう。なんたって誰も英会話力や長ったらしいライティング能力を測ろうとしないからだ。殆ど成績にもテストの点数にも影響しないスピーキング力とライティング力は置いてけぼりにされて、ひたすら特訓した「静かに速く読む」英語力だけついてしまう。 

まるで身体の一部だけ異常にマッチョになったポパイのような学生がこの国で大量に生産されていく。就活で英語力の基準として積極的に採用されているTOEICだって、話す力や書く力は全く評価されてないわけだから、大半の学生はスピーキングとライティングを伸ばす必然性を理解できないし、むしろ賢い学生は難関大合格に不要なスキルを早々に見捨ててしまう。 

その結果、外国人学生と総合的な英語力を比較してみたり、他国の学生と議論させるとずーっとシェイクスピアをカフェで読んでるかのように黙ったままの日本人学生が笑いものにされてしまう。結局、ただただ自己流で音読をして授業に望んだって身につくのは「大学受験に必要な英語力」それは決して英語そのものとイコールの関係にはならない得体の知れない能力でしかない。 

ならなんといえばいいか。「英語なんて言葉なんだ!こんなものやれば誰だってできる」というよりも、「大学受験に必要な英語なんてリーディングとリスニングなんだ!他のスキルを無視ってひたすら音読すればこんなものやれば誰だってできる」といった感じ。語呂が悪すぎて15秒のスポットCMに採用されるはずのない相当酷い代物になってしまう。 

結局、ライティングとスピーキングの能力不足がボトルネックになってしまって、本来の意味で英語を使いこなせると胸を張って言える学生がいなくなってしまう。せっかく英語を試験問題として課すなら、もっとバランスのとれた出題はできないものかと考えてしまう。 

日清のCMじゃないけれど、How are you?にI'm fine thank you.と反射的に答えてしまう英語教育に深刻な問題があることは一目瞭然なのだ。いつまで経っても明治時代から変わらないただただ黙ってする英語学習が、もうそろそろ不十分なものであることを認識して、成績の評価基準から改めた方がいいのかもしれない。せめて英語における4大スキルの(LRSW)をそれぞれ25%ずつ占めるように評価するテスト形式にするだけでも、学生全体の英語力は飛躍的に伸びるのではないかと思うのだ。

ダマされるな!牛乳有害説の有害性



好き嫌いなくなんでも食べることは昔から親が子に教えてきたこと。だが、福島原発事故以降、日本国内で食品の安全性や放射線汚染の影響等が異常な程に注目を浴びるようになり、その後も産地偽装問題等食品関連の問題が続いたことで話題性は高まるばかり。なかでも比較的放射線の影響を受けやすい牛乳は、その有害性が声高に主張されている。もっとも、牛乳の有害性は原発事故以前に既に牛乳有害説として食に神経質な一般人の間で支持を集めていた。 

牛乳有害説の主軸は、放射線汚染というよりも牛乳に含まれる乳糖を分解する酵素ラクターゼの不足。大半の日本人が乳糖を分解する酵素を持たない(もしくは不足している)乳糖不耐症であるため、下痢等の症状に苦しむことになるという。牛乳を飲んでもカルシウムを吸収できないどころか、飲んだことで深刻な下痢に悩むことになるそうだ。そんな牛乳有害説を支持するとある保護者がブログに書いたセンセーショナルな記事が注目を集めている。 

結論から言えば、牛乳有害説はまともな根拠すらない全くの嘘。牛乳は今も昔も重要なカルシウム摂取源であって、その他にもビタミンやミネラルをバランス良く含む素晴らしい食品なのだ。とはいえ、牛乳有害説の中心的な根拠となっている乳糖不耐症それ自体は嘘ではない。ハーバード公衆衛生大学院の研究結果によれば、アジアの人々の90%が乳糖不耐症であり、これはヒスパニックの人々(50%が乳糖不耐症)や北欧の人々(15%)に比べて明らかに高い数値と言える。肝心の日本人はというと、元東京大学医学部教授の上田英雄氏が実施した調査結果をそのまま引用すると、実に95%もの人々が乳糖不耐症なのだという。 

乳糖不耐症の人に過剰な量の乳糖を投与すると下痢等の症状が確認されるのだが、これは消化吸収されずに大腸に到達した乳糖が腸内の浸透圧を上げることで、腸壁から水分が染み出し、便が軟化することによる。だが、東京大学大学院農学生命科学研究科の清水誠教授は論文で、「乳糖30g(牛乳700ml相当)ではひとりも下痢を起こさないため、コップ1~2杯の牛乳では多くの場合、問題がない」としている。それでも牛乳有害説の論者は、牛乳と下痢との関係性を主張し続けるだろう。例えば、聖霊女子短期大学生活文化科の塚田三香子教授が学内で実施したアンケート調査では、牛乳を苦手とする学生のうち28.1%の学生が飲まない理由として「お腹がごろごろする」ことを挙げている。 

牛乳を飲むことと下痢との関係を否定する学者もいれば、肯定する学者もいる。個人的には、小学校入学後に学校給食で毎日のように出される牛乳がどう考えてもご飯に合わないので、ひと通り食べ終えてから牛乳を一気に飲んでしまったことが原因なのではないかと思う。冷えた飲み物を一気飲みすれば、牛乳に限らずお腹に良くないことは当たり前のことである。一度でも幼少期に苦手意識をもってしまえばそれを克服することは容易なことではない。 

前出の塚田教授は、マウスを用いた実験を通して、乳糖を含む食品を投与し続けた個体の方が、乳糖を含まない飼料を与えた個体よりも乳糖分解酵素の活性を持った細菌類の数が上昇し、乳糖不耐症を軽減する効果を得たことを証明している。この実験結果を受けて塚田教授は、『「乳糖不耐症と自覚する集団は、乳類を摂取しないためカルシウム摂取量が低い」ということが確かめられている。このような集団に起こるのは、「牛乳による不快な症状を自覚しやすい人は牛乳など乳製品を取らない、すると乳糖を摂取する機会がないために乳糖分解を助ける腸内細菌叢が形成されない、細菌による乳糖分解の助けもないために牛乳をのむと益々乳糖不耐症の症状が自覚されやすい。」という循環が成り立ってしまうためである。』と結論付けた。 

それでもまだ牛乳有害説の支持者はこう訴えるだろう。
「我々は人間だ、マウスじゃない」 

だが、牛乳有害説を崩す根拠はこれだけではない。アメリカ国立衛生研究所の研究員がThe American Journal of Clinical Nutritionで公開した論文では、乳糖不耐症の被験者とそうでない被験者との間で牛乳に含まれるカルシウムの吸収率の差が大きくないことが明らかにされている。また、同論文では1983年に実施された同様の実験でも乳糖不耐症の被験者のカルシウム吸収率が通常よりも18%程低下したという実験結果を紹介しているが、これは言い換えれば、乳糖不耐症の人でも80%以上のカルシウムを吸収できることを意味している。 

その点、冒頭のブログ記事では、『特によく聞くのが、「カルシウムが多くて骨が強くなる」です。でも実は牛乳ってそんなにカルシウム多くないんです。牛乳100g中に110mgのカルシウムが含まれています。ひじきには1.4倍 小松菜には1.5倍 大根の葉っぱには2倍切り干し大根には5倍昆布には6.5倍ワカメには7倍煮干には22倍のカルシウムが含まれています。』と、牛乳が必ずしもカルシウムを豊富に含む食品ではないことを挙げているが、公益社団法人日本栄養士会はHP上で『カルシウムは吸収率の低い栄養素ですが、牛乳のカルシウムの吸収率は他の食品に比べ高く(牛乳:約40%、小魚:約33%、野菜:約19%)、手軽にある程度の量を摂取できます』と説明しており、実質的な吸収率を考えれば牛乳が圧倒的に効果的な食品であることは明らかであるといえる。

そもそも大勢の生徒に限られた人員と経費で食事を準備しないといけない学校給食において、ひじきだの大根の葉っぱだのを献立に採用するよりも、牛乳を1人1本ずつ与えた方がより経済的かつ効果的である。それに、学校給食の献立は、牛乳に含まれるカルシウムの吸収を助けるビタミン類のバランスが良くなるように組まれている。とりわけ牛乳との相性の良いビタミンDは、日光を浴びることで生成できるため、牛乳の文句を言う位なら給食をしっかり食べて外で思いっきり遊んだ方が子供の健康のためになるのではないか。 

結局のところ、このブログの著者が信奉する牛乳有害説は、全く根拠なき嘘なのである。兵庫県丹波市に住む著者が福島原発の放射線汚染の心配をするあたり既に意味不明ではあるものの、NPO法人新宿代々木市民測定所が公開している牛乳の放射線汚染度のリストを見ても今のところ深刻な健康被害を与えるような牛乳は市場に出回っていない。むしろ、訳の分からない説に囚われて、罪のない子供が貴重なカルシウム源を失っていることに同情の念さえ芽生えるといったところだ。 

なにはともあれ、牛乳は最高の食品であることに変わりはない。この著者のように、牛の乳を人が飲むことを疑問視するのであれば、そこは徹底して加工食品も食べずに裸で暮らせば良いのだ。ブログのコメント欄にある読者がこんな質問を投げかけた。「でわ、アイスも、ケーキも、ピザも食べないんですね?これらも乳製品ですが?」 肝心の著者はというと、「知った上で食べてますよー。みんな好きですし。あれこれ選択した上でですが。体にいいからという間違った思い込みで食べたり食べさせたりするのがよくないといいたいんです」と答えている。 間違った思い込みとは何か、考えを改めるのは今からでも遅くはない。

 (参考論文URL) 
http://www.hsph.harvard.edu/nutritionsource/calcium-full-story/#calcium-from-milk 
http://ajcn.nutrition.org/content/42/6/1197.long 
http://www.j-milk.jp/tool/hokokusho/berohe000000bert-att/berohe000000bevw.pdf http://lin.alic.go.jp/alic/month/domefore/2008/jun/spe-02.htm

NISAは年金の代わりになり得るか



昨年10月に年金支給額の引き下げが決まった。前回に引き下げに加え今後2回、つまり3段階に分けて実際に受け取れる年金が減ることになる。例えば、国民年金と厚生年金を負担した元サラリーマンの夫とその妻が受け取れる額は、来年度以降、今年度よりも約7万円近く減額される。 

加入している年金区分や加入期間に応じて減らされる金額は異なるものの、今より増えることはまずあり得なさそうだ。そもそも、昨年10月まで特例措置として2.5%増額されていたという事実をどれ程の国民が知っていただろうか。今回の減額は、この特例措置の解消による。 増え続ける高齢者と福祉負担。日本が世界で最も長寿な国の1つであることは、豊かな国民生活と高度な医療制度の賜物で、誇るべき事実であるのは間違いない。ところが、この制度は恒久的なものとは言い難く、とりわけ今の若者世代にとっては不安要素の多すぎる制度と指摘できそうだ。 

昨年8月、社会保障制度改革国民会議が安倍首相に提出した年金制度に関する報告書では、「制度の持続可能性が確認されている」等と将来を楽観視する予測が立てられた。ところが、日本の年金制度は本来、長期にわたって安定した物価上昇率とそれを上回る賃金上昇率を前提としている。当然、安定した物価と賃金の上昇は、年金の積立金を条件の良い利回りで運用することを可能とするため、年金の配当による積立金喪失を積立金運用による立て直しでの調整が期待できた。 

だが、現実はそう甘くない。バブル崩壊に伴う20年以上もの停滞経済に少しでも刺激を与えようと、ほぼ0%にしか思えない程の超低金利状態が続いた。多少景気が上向いてきたここ5年の長期金利も1%前後で推移していることを踏まえると、いかに年金制度が前提としていた社会が「どこの国の金利だよwww」状態であるかが分かる。 

さて、ここまできてしまうと、どう考えても立て直し不可能な年金制度の改革案を練るよりも年金の代替制度を考えた方が時間を有意義に使えそうだ。実は、その可能性を秘めた魅力的な制度が証券税制改革によって実現しそうなのだ。今年1月から導入されたその制度の正式名は、「少額投資非課税制度」で愛称は「NISA(ニーサ)」。年間100万円を上限に上場株式や株式投資信託等の金融商品を購入をすると、それらの配当金や売却益等が5年間課税対象とならない。 

つまり、年間100万円までであれば、通常20%程度課税される株の配当金や売却による利益を非課税でそのまま懐に入れることができる制度である。NISAの適用を受けるためには、専用の口座を開設する必要があるものの、所得税等他の税金の課税対象となるはずだった100万円を株や投信に逃がすことができる。口座開設後5年間、総額500万円まで非課税となるなんともお得な制度の導入によって、国民の貯蓄率向上や金融商品への関心度を高めることも期待できる。 

実はこのNISA、イギリスで既に恒久的な導入が決定された同様な制度を参考にしている。イギリスでは、ISA(Individual Savings Account)と呼ばれ、上場株式や株式投資信託等の金融商品はもちろん、現金をそのまま積み立てることもできる。 イギリスは今、2014年の国家予算の議論の真っ最中。主要な税政策の変更点の1つとして、ISAの上限を6月から総額11,880GBP(約200万円)から15,000GBP(約250万円)へと引き上げることが、ジョージ・オズボーン財務省のスピーチで明らかにされた。もともと、イギリスのISAは少し複雑なシステムだった。上限の11,880GBPのうち、現金で積立られるのは5,940GBP(約100万円)だけ。一方、株や投信の場合は上限はなく、11,800GBPの枠を株で埋めることも可能だった。今回の変更で、枠を現金で埋めることも可能になった。イギリス財務省は、新たに上限を引き上げたISAをNISA(New ISA)と呼んでおり、偶然か否か日本のNISAと同じ名称になっている。 

日本のNISAとの大きな違いは、非課税対象に現金が含まれている点と、制度に期限のない恒久的なものである点。それ以外については、殆ど似た制度。イギリスでは、成人の2人に1人がISAを利用しており、活用度合いの高さは注目に値する。これには非課税対象に現金が含まれていることが大きく貢献していると考えられそうだ。 

非課税対象が金融商品に限られた日本のNISAでどれだけ利用者が伸びるかは未知数だが、国内の専門家の多くは小口投資家の増加を予想している。年間100万円という額は手を出せないほどのものではなく、非課税となるのであればと新たに株に興味を示すも増えるはずだという。実は、イギリスでも現金の積立を機に、非課税に加えて更なるメリットを求めて金融商品での積立に切り替える人が続出した経緯を持つ。現在では、ISAの積立金の半分が金融商品によって積立されており、2012年時点でイギリス全体の投信残高約71兆円のうち、18%に相当する12兆円がISAの積立金だという。 


将来の年金制度を信用できないなら、嘆き悲しんだり文句ばかり言うのでなく、可能性のある代替手段を探すべきだ。NISAは、そのポテンシャルを大いに持つプランBになり得る上、利用者が増えれば制度の恒久化や上限の引き上げ等が期待できる。だが、金融商品である以上、元本割れのリスク等、年金制度では本来あり得ない問題が常に起こりうる。もっとも、年金制度すら「元本割れ」しそうな今日の日本社会。多少のリスクを負っても、収入の一部をタックスヘイブン状態で運用してみるのもアリかもしれない。

日本メディアが赤だと言えば、韓国メディアは青だと言う



今月25日、 核セキュリティ・サミットに出席するためオランダのハーグを訪問している安倍首相が、在オランダ米国大使公邸において約45分間にわたってオバマ大統領及び朴槿恵大統領と日米韓首脳会談を行った。これまで安倍首相との首脳会談を拒否してきた朴政権としては大統領就任以来初の首脳レベルの会談となったが、ぎこちなさが残る3カ国会談は、改めて日韓間の溝の深さを際立たせた。 

国内メディアの多くは、「悪化する日韓関係の打開に向けた第一歩」などと前向きな評価しており、少なくとも北朝鮮問題解決に向けた日韓双方の連携の確認がとれたことには大きな意義がありそうだ。加えて、タイミングを見計らったように北朝鮮が中距離弾道ミサイル「ノドン」を日本に向けて発射したことで、皮肉にも今回アメリカが主導した3カ国首脳会談の最重要テーマである北朝鮮問題の深刻さを裏付ける結果となった。興味深いことに、今回の会談に参加した日米韓各国の大手メディアの報道内容は全く異なった視点に立っている。いくつか例を出してみよう。 

■朝鮮日報(韓国) 
"아베 총리, 박근혜 대통령에 한국말로 인사…“오바마 美대통령 오글오글" 
"安倍首相、朴槿恵大統領に韓国語で挨拶...「オバマ大統領もモジモジ」" 

■聯合ニュース(韓国) 
"한미일 3각 협력관계 복원되나…과거사 우려는 여전"
"韓米日、3カ国の協力関係は改善されるものの...過去の懸念は変わらず"

■聯合ニュース 日本語版(韓国) 
"米仲介で韓日首脳が初会談 関係改善へ道のり遠く"

■読売新聞 
"日米韓首脳会談 「北」の核放棄へ連携取り戻せ"

■朝日新聞 
"日米韓首脳が北朝鮮問題で連携確認、3カ国の軍事協力も協議"

■産経新聞 
"日米韓首脳会談 相違乗り越え連携強化を"

■WSJ(アメリカ) 
"Current Leaders of South Korea, Japan Meet for First Time" 
"韓国と日本の現職首脳が初会談" 

同じニュースでも見出しでこれだけ異なるのは面白い。もっとも、各国とも極端な記事内容を好むメディアが存在する以上、完全に各国メディアの傾向を捉えることは難しい。それでも、大量の読者や視聴者を抱える大手メディアの報道の仕方に注目すると、なかなか面白い特徴を見出すことができる。 

韓国メディアは、やはり安倍首相の言動や日本の外交方針にフォーカスした記事が多い。今回の会談では、論争の激しい歴史問題や慰安婦問題などは言及されなかったものの、多くの記事では「戦争犯罪」や「慰安婦」などといった語句が含まれている。ちなみに、前出の聯合ニュースは、自国のページでは、「아베, 서툰 한국어로 "만나서 반갑스무니다"安倍、不器用な韓国語で"お会いできて嬉しいです"」という見出し。"서툰"は、下手とも不器用ともとれる比較的否定的な意味合いの強い単語だ。 

日本メディアは、今回の3カ国会談を冷え込んだ日韓関係の改善に向けた一歩として肯定的に受け取るケースが殆どだった。韓国メディアの多くでみられた安倍首相の韓国語挨拶は日本メディアでは殆ど取り上げられず、代わりに会談後に安倍首相が述べた「未来志向の日韓関係に発展させる第一歩にしたい」という一言をそのまま引用している。この「未来志向の日韓関係」という言葉を記事内に取り入れた韓国メディアはひと通り確認したところ1つもなかった。片方のメディアで盛んに用いられた語句が、もう一方のメディアでは全くみられないといった現象は日韓のメディアではよくある現象だ。 

最後に、アメリカのメディア。アメリカでは、今回の会談を淡々と3カ国首脳が述べたことを直接引用した上で、会談の主要なテーマが北朝鮮の核問題であることに言及している。ちなみに、イギリスのBBCは、"US brings together Japan and S Korea leaders after rift"という見出し。深刻な状況に陥っていた日韓首脳のデートをアメリカが設定した感じ、というと言い過ぎかもしれないが、少なくとも今回の会談にアメリカが果たした役割を多少なり肯定的言及している。これについては日韓メディアとは異なった傾向だ。どちらかというと韓国のほうがこの傾向が強いが、今回の会談をオバマ大統領によるお節介に近い捉え方をしている日韓メディアは少なくない。 

客観的にみて、歴史問題を含む外交問題でこれまでにないほど明確な対立関係を築いてしまっている現在の日本と韓国の関係を修復することは簡単なことではない。日本メディアの多くが、韓国を重要なパートナーとして位置づけ、北朝鮮問題を含む東アジア情勢の改善に不可欠とみていることは重視すべきだが、今回の会談はその第一歩というにはあまりにも内容のない会談だった。日本メディアとは内容がほぼ真逆といって良いほど異なる韓国メディアを読み解くと、韓国の世論形成の在り方や実質的な認識がどのようなものであるか多少なり理解することができる。 

時間があれば、なぜ韓国がこれほどまでに対日感情を激化してきているのかその原因について書いてみたい。

韓国の反日路線は新たな防衛戦略の要



朴槿恵大統領率いる韓国の現行政権が明確な反日路線に舵を切り、次なる錨地である北京へと船を動かし始めた。オランダのハーグで開催された核セキュリティ・サミットに合わせて事前に行われた中韓首脳会談では、仁川国際空港で行われた中国人民志願軍の遺骨の引き渡し式やハルビンに建設された安重根義士記念館設置に対する双方の謝意が示され、両国の結び付きを強調する発言が続いた。

安倍首相との会談を就任以来拒絶してきた朴槿恵大統領。その一方で、習近平国家主席との距離はこれまでにないほど近付けている。朴政権の一連の動きや発言を精査すると、韓国が描く長期的な防衛戦略が見えてくる。

韓国の国防予算は、ここ10年余りで急激に増加してきた。2002年には約16兆3000億ウォンだった軍事予算は12年には約35兆2000億ウォンと倍増。不安定な朝鮮半島情勢に対応するために、最新の戦闘機やミサイル、K2戦車に加えて、イージス艦の整備まで進めた結果、韓国はアジア5位の軍事大国となった。韓国にとって最も重要な戦略的パートナーであるアメリカが軍事予算の縮小を進める動きに対応する形で軍拡を進める韓国。今年1月には、撤退案さえあった在韓米軍の規模を維持するために韓国政府がさらなる思いやり予算への予算投入に合意している。

日本との友好関係を樹立するという政治目標の優先順位を下げ続ける韓国の真意とは何か。仮に、朴政権を含めた歴代政権が悲願としてきた南北統一や韓国の安全保障の最大化という2つを朴政権の最優先事項とすれば、韓国の中国シフトという動きを多少なり理解することができそうだ。

日米韓3カ国首脳会談を牽制するために中距離弾道ミサイル「ノドン」を発射した北朝鮮は、韓国の中国接近について明確なスタンスを示していない。当然ながら、孤立している北朝鮮の唯一の盟友である中国の国家主席に泥を塗るようなことはしたくない。韓国は、北朝鮮にとって最も重要な国である中国に上手く接近することで独自の防衛戦略を確立しようとしている。韓国貿易協会の公式資料によれば、既に韓国の対中貿易額はアメリカと日本との貿易額を合わせた額よりも多く、全体の3割近くを占める。韓国の得意とするスマートフォンや自家用車、家電等の一大消費地である中国との友好関係の樹立は、韓国経済を支えていく上で、今後更に不可欠な要素となる。もっとも、その重要性は経済面に限らない。

急激な軍拡を進める核保有国の中国と安定した外交関係を結ぶことにすれば、同様に中国に依存している北朝鮮との距離を縮めやすくなる。中国にとっての韓国の存在が、韓国側と同レベルに重要なものとなれば、北朝鮮の軍事的な拡大意欲を中国側からの助力によって有利にな形で抑えることができる点も見込んでいるのだろう。事実、朴政権は28日、北朝鮮に対し、南北住民の人道的問題の優先的解決、南北共同繁栄のための民生インフラの構築、南北住民間の同質性回復の3大構想を提案している。これに加えて、朴槿恵大統領は、オランダの公共放送会社であるNOSのインタビューに対し、国連北朝鮮人権調査委員会の最終報告書について、中国が安保理で拒否権を講師しないことを望むと表明している。これは、韓国側の対北政策に対して、中国側がどのように出るのかを試す意図もあると見れそうだ。

強硬な対米路線を示す北朝鮮との話し合いの場を早期に築くとすれば、このまま韓国がアメリカや日本との関係を強化するよりも、中国との距離を縮めた方が現実的だ。それに、中国にとって韓国が特別な存在となる上で必要なカードも韓国側は既に持っている。それが、「反日」というわけだ。

膨大な人口をコントロールする上で、中国共産党にとっての反日は、韓国内の世論操作と全く同様の効果を持つ。共産党としても、韓国側が反日路線のカードを持って接近してくることは、まさに「痒い所をかいてくれる存在」とみえるだろう。歴史的な背景から、韓国側がアメリカや日本と直接的な軍事対立に至ることは考えられない。こうした状況を踏まえて、対日路線という共通の利益をもとに中国に上手く接近することに成功すれば、不安定化する東アジア情勢の中で韓国の国益を最大化することができる。それは、単に防衛や貿易、外交といった範囲に留まらない、韓国にとってこれまでにないほど重要なものとなるだろう。

国益の最大化を求める韓国の外交に、日本はどのように対応できるだろうか。韓国にとって、外交カードとしての意味合いが強い慰安婦や戦後賠償の問題に、正論をもって反論をするだけでは、中国や韓国の政府が苦心している国民の世論操作を意図しない形で寄与する結果となってしまう。一歩先の外交政策をとるとすれば、今の日本には他国の長期的な戦略を踏まえた「更なる超長期的戦略」が必要となる。

日本一高価な島で起きた悲劇



東京から直線距離にして1740km。太平洋上に形成された珊瑚礁の島である沖ノ鳥島は、畳数枚分程の広さしかない。そんな絶海の孤島で、5名の尊い命が失われるという悲劇が起きた。

五洋建設を含む3社が共同して建設にあたっていたのは、海洋調査等を行うための船舶を係留する目的で計画された長さ100mの桟橋。工事を受注した国土交通省の資料によれば、桟橋の総工費はなんと750億円。本土から遠く離れた無人島に、これほどまでの巨額の費用を投じる理由はなんだろうか。東京都小笠原村に属している沖ノ鳥島は、日本最南端の島として広く知られている。政府がこれまで巨額の投資を続けてきた理由に、この島の「位置」が深く関係している。

現行の国連海洋法条約では、領海から200海里(約370km)までを排他的経済水域として認めており、沖ノ鳥島は、硫黄島と沖大東島の間の排他的経済水域外の水域を南側から蓋をするように位置している。沖ノ鳥島がなければ、硫黄島と沖大東島の間の海域は公海となり、周辺国も自由に海域調査や資源探査を行うことができるようになる。だが、この海域が日本の領有する沖ノ鳥島、硫黄島、沖大東島の3島に囲まれることによって、本来であれば排他的経済水域が及ばず公海扱いとなる海域も自国の排他的経済水域の圏内となるわけだ。

沖ノ鳥島を失えば、日本は自国の国土面積を上回る排他的経済水域も同時に失うことになる。今後、海底油田やメタンハイドレートの開発、水産資源の確保等、日本にとってこの海域の重要性が高まっていく中で、沖ノ鳥島を失う訳にはいかないという訳だ。ところが、肝心の沖ノ鳥島が長年の波による浸食の影響で今にも太平洋に沈みそうな状態。そこで、政府は昭和62年から2年の歳月をかけて、島の周辺50mに消波ブロックを積む補強作業を行った。ちなみにこの補強作業に投じられた費用は約285億円。これほどまでの費用を投じた無人島は、他にあるだろうか。

今回の事件に関連して、現時点での報道情報によれば、建設中の桟橋が突如転覆し、桟橋に乗っていた作業員16名全員が海に投げ出され5名の死亡が確認されている。今でも2名の作業員が行方不明で、懸命な捜索活動が続いている。

建設を担当した五洋建設は、マスコミの取材に対し、「現時点で事故原因は調査中」とコメント。事故当時、海は穏やかで指定の安全手続きに従って作業が進められていたという。

海洋資源の確保は、日本にとって最も重要な国益の1つ。一般財団法人日本船主協会は、同協会のホームページ上で沖ノ鳥島を「太平洋上に浮かぶ日本一高価な島」と紹介した上で、「日本の国土面積を上回るこの広大な経済水域の漁業資源や海底の鉱物資源を考えれば、この補強工事は、資源小国日本にとって、決して高い買い物とはいえないだろう」と主張している。

天然資源に乏しい日本にとって、大きな可能性を秘めた海洋資源に莫大な投資をすること自体は合理的だが、お金には変えられない人命が失われてしまったことによって、沖ノ鳥島開発は単なる高い買い物ではなくなってしまった。

日本の国益に直結する重要な島であるからこそ、開発事業の安全性と確実性は確固たるものでなければならない。事故原因の究明と未だ捜索の続く行方不明の無事を心から願いたい。

これからは民主主義すら買える時代



"What Money Can't Buy: The Moral Limits of Markets"の著者、マイケル・サンデル教授は何と言うだろうか。殆ど全てのモノとサービスに値段が付けられているアメリカで、陳列棚に新商品が並ぶことになりそうだ。 

アメリカ最高裁は、今月2日、政治献金の1人当たり上限規制を違憲とする判決を下した。個人が複数の候補者とPAC等と呼ばれる政治資金団体に献金できる上限額、それぞれ48,600ドルと74,600ドルが撤廃され、理論上、いくらでも政治献金ができるようになる。ちなみに、判決ではブッシュ政権時代に大統領から指名された保守派の裁判官5名全員が違憲の判断を下した一方で、リベラル派の4名は合憲とした。 

実は、4年前の2010年にも同じような最高裁判決が下されている。2010年1月21日に下されたシチズンズ・ユナイテッド判決では、アメリカ最高裁が企業や団体の選挙資金拠出を制限していた連邦法を違憲と判断。この時も保守派の裁判官5名とリベラル派4名との間で判断がきっぱりと分かれている。政治献金を通じた資金拠出や寄付の自由を言論の自由の一部と見る保守派に対して、リベラル派は莫大な資金によって民主主義の持つ本来の価値が失われると反論。真っ向から対立してきた政治献金規制法案に対する憲法判断は、保守派の持つ「5票目」によって常に違憲とされてきた。 

アメリカにおいて、政治献金に上限が課されるようになったのは、ニクソン政権時代に起きたアメリカ史上最大規模の政治スキャンダル、所謂「ウォーターゲート事件」以降から。ホワイトハウスに対する国民の信頼回復を主たる目的として、個人や企業、団体からの政治献金を規制する法案がまとめられた。 

ここ最近の政治献金緩和の流れは、アメリカのみならず全世界が注目する大統領選や連邦議員選等、選挙関連の費用の高騰に対応する目的もありそうだ。オバマ大統領が2選目を果たした2012年アメリカ大統領選挙は、黒人大統領の歴史的な2選目であったと同時に、アメリカ史上最もお金のかかった選挙でもあった。大統領選挙全体でかかった費用は25億ドルと見積もられ、70年代以降、アメリカで新しい大統領を決める度に選挙費用が高騰してきている。 

莫大な選挙資金の多くは、候補者の選挙キャンペーンやその対立候補のネガティブキャンペーン等の広告費用に費やされてきた。こうした選挙広告が最も過熱化するのが、スイング・ステートと呼ばれる激戦州である。代表的な激戦州であるネバダ州やフロリダ州、ウィスコンシン州等では、前回の大統領選で実に30万回ものテレビCMが流された。 

今回の最高裁判決は、大統領選挙等における1人の候補者への献金額上限を予備選挙と本選でそれぞれ2600ドルとする条項には影響しないとされているものの、政治行動委員会(通称PAC)を経由した企業や個人の献金額の上限が撤廃されたことによって、事実上、選挙資金規制関連法案が形骸化することになる。 

近年、選挙資金全体におけるPAC経由の資金の割合が高まる中、今回の判決によって、アメリカの政界が巨額の資金を持つ個人や産業界の影響を受けやすくなることは、所得の少ない一般市民の声が益々届きにくくなることを意味する。所得や人種の隔たりなく自由に主張し、政治を動かしていくという民主主義の根本原理が覆されることになりそうだ。 とはいえ、アメリカの政治献金システム全てに問題があるわけではない。アメリカでは、政治献金や政治資金の出処を証明する資料の公開が義務化されており、「誰が誰にお金を渡したのか」を正確に追跡することができる。こうした政治資金の透明性は、政治家への資金提供が時折問題となる日本とは対照的とも言える。 

日常生活に大きな影響を与える政治。こうした政治的活動を支える資金の在り方を問う今回の最高裁判決は、アメリカ国民にとっても、それ以外の国にとっても注目すべきテーマであることは間違いない。もっとも、現行の政治資金関連の透明性を担保する法律が正常に機能していたとしても、献金額に上限を設けないことは、アメリカの政治がお金持ちによってコントロールされやすくなることを意味する。

仮にあなたが巨額の資産を持ったアメリカ国民の1人で、サンデル教授と一緒にハーバード大学近くの商店に行く機会があったとして、陳列棚に並ぶ「民主主義」とプリントされた商品を見たら教授はこう問いかけるだろう。 

―それをお金で買いますか?