たいらくんの政治経済。

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2014/07/06

集団的自衛権の必要性

安部首相は、7月1日の閣議で集団的自衛権を認める方針を固めた

今月1日に実施された臨時閣議で、安倍首相は集団的自衛権の行使を認める新たな憲法解釈を閣議決定した。これまで認められることのなかった集団的自衛権の行使が容認されたことで、日本の軍事的役割は大幅に拡大することになりそうだ。朝日新聞は、2日付の記事で、「安倍晋三首相は、その積み重ねを崩し、憲法の柱である平和主義を根本から覆す解釈改憲を行った」と報じ、戦後、専守防衛に徹してきた日本が、直接的な攻撃にさらされなくとも他国の戦争に参加できるようになったと強い懸念を示した。軍事的行使に関わる憲法解釈の仕方を巡って、激しい議論が繰り広げられているが、何よりもまず現行憲法、とりわけ戦争放棄を明記した9条と集団的自衛権の概念それぞれについて冷静な分析を加える必要がある。

日本国憲法が度々、平和憲法呼ばれる主たる所以は、侵略戦争を含めた一切の戦争と軍事力の行使や軍事力を間接的に用いた威嚇を放棄した点と、戦争放棄のために徹底した戦力不所持を明記した点、更に、国の交戦権自体をも否定した点の3点に集約されている。これまで、世界的に戦争廃絶に向けた血の滲むような努力がなされてきたが、いずれの平和主義的条約や憲法も侵略戦争の制限もしくは放棄に留まっていた。日本を代表する憲法学者の芦部信喜氏は、この点について、侵略戦争はもちろんのこと、「国権の発動たる戦争」を含む全ての戦争の放棄と、具体的な戦力と交戦権を全面的に否定したという点において、日本国憲法は「比類のない徹底した戦争否定の態度」を打ち出しているという見解を示している。

玉音放送を聴き、その場で座り込んでしまった人々

長い戦争の時代を経て、1945年にようやく終戦を迎えた日本。戦争がもたらす惨禍を嫌という程経験してきた当時の日本人にとって、戦争の全面的否定と平和維持に向けた取り組みは切実な願いだった。前述の芦部氏は、「日本国憲法が徹底した平和主義的思想を採用した背景には、国際的な動向のみならず、日本側の意向も反映されている」と述べており、GHQによる統治時代に首相を務めた幣原喜重郎氏が自身の強い平和主義思想をアメリカ側に示したことで、後の憲法草案として活用されたマッカーサー・ノートの1つのきっかけになったと分析している。

終戦後、日本国憲法はこれまで一度も改正されたことがないが、憲法条文の解釈の仕方については若干の修正が度々行われてきた。もっとも、憲法9条の解釈については、長らく個別的自衛権の行使に留まるとされていた。安倍首相が今回採用することを決めた新たな憲法解釈が特異である点は、自衛権の範囲を集団的自衛権にまで広げたことにある。だが、現行の憲法9条から集団的自衛権を持ち出すことに懐疑的な見解を示す人は少なくない。

■日本国憲法9条
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

改めて憲法9条を読み直すと、集団的自衛権はおろか交戦権すら認めていないようにも思える。実際に、自衛的な戦争を含むすべての戦争行為の放棄を意味していると解釈する見解もあるが、政府は、交戦権について、国際紛争を解決する手段としての戦争(侵略戦争)についてのみ制限されており、自国を他国による攻撃から守るための戦争(自衛戦争)は放棄されていないと解する別な見解をとっている。

現実的な意見として、自衛権までもを放棄することが安全保障上最も妥当な考えだとは到底結論付けることはできない。終戦以降、安全保障面においてアメリカとの結びつきを強化してきたという歴史的背景から、この平和的な憲法が、日本の平和維持が他国の軍事力に依存した他力本願で消極的なものであるという批判が度々なされてきた。一方で、前述の芦部氏は、日本国憲法が「平和構想を提示したり、国際的な紛争・対立の緩和に向けて提言を行ったりして、平和を実現するために積極的行動をとるべきことを要請している」としており、実際は決して消極的な考えに基づくものではないと指摘した。だが、こうした積極的な平和維持構想は、現実とは遠くかけ離れた理想主義的なものであるとしか言い様がない上に、自衛権に在り方についても明確な答えを示す訳でもない。

自衛隊は世界有数の作戦遂行能力を持つ実力部隊の1つ
残念なことに、日本の周辺各国の軍事予算は年々増強され続け、北朝鮮に至っては核兵器の基本的な運用能力があることを示そうと躍起になっている。日本も中国の軍事的影響力の強化や北朝鮮情勢に対応するために、これまで自衛隊の作戦能力向上のために多額の防衛予算を注ぎ込んできた。一方で、こうした自衛隊の強化は、韓国や中国からの厳しい批判に晒され、これらの国々もまた日本の軍事的脅威に対応するという名目で自国の軍事予算を増加させる口実を与えている。つまるところ、芦部氏の訴えた積極的平和維持は今のところ実現していないのだ。

人類は未だに究極的な平和を実現するための方法を知らない。日本国憲法が日本国民と政府に要請した積極的な行動を通じた平和維持構想の伝播は、成功には至っていない。仮に、憲法が求めた平和構想が直接的な戦火を交えない状態を意味するならば、日本に限っていえば辛うじて成功していると主張する余地があるが、未だ戦争状態にある朝鮮半島情勢や南沙諸島・西沙諸島への勢力範囲拡大意図を見せ続けている中国政府の姿を見れば、誰しも今の東アジアが完全なる平和を享受しているとは言えないはずだ。終戦から半世紀以上経過したにも拘わらず、このような緊迫した状況にあるのは、平和実現において日本の役割が全くもって十分でなかったことを意味すると解釈せざるを得ない。もっとも、東アジア情勢の不安定化の原因が日本だけにあるという訳では当然ないが、第二次世界大戦中多くのアジア諸国を侵略し兵士を含む多数の民間人の生活を脅かしたという史実と、憲法の制定過程における最も厳格な平和主義への追求が未だに活かされていないという事実は、真摯に受け取らなければならない厳しい現実であることには違いない。

こうした現実は、憲法9条を最も厳格に解釈し、自衛戦争さえも放棄したと解釈する人々の考え方が如何に妄想の上に成り立つおとぎ話でしかないのかという疑問を強める。周辺国が日本にとって軍事的な脅威であると考える余地がある以上、自衛権の否定は自国民の生命財産を守るという最も基本的な国の義務が果たせないことを意味する。結局のところ、現行憲法は自衛権までもを制限したものではなく、他国の脅威から自国を守るという目的での作戦能力は正当化されるという解釈の方がより現実的であり、論理的だ。だが、こうした考え方は、仮に今回問題となっている集団的自衛権や自衛権それ自体に必要とされる防衛力が、他国を侵略する目的の戦力とどのように区別されるかという新たな問題を生み出す。世界でも有数の性能を誇る航空機や潜水艦、加えて最新技術満載のイージス艦を保有する自衛隊に、他国に侵略戦争を仕掛ける能力が全くないと主張することには無理がある。つまり、自衛権を憲法解釈で認めるとすれば、自衛権行使に必要な戦力をどのように定義し、今の自衛隊の規模や作戦能力が自衛権を行使する上で最も妥当なものであるということを証明しなければならないが、これもまた殆ど不可能に近い話だろう。

政府は、こうした自衛権行使のための必要最小限度の実力について、「他国に侵略的な脅威を与えるような攻撃的武器は保持できない」としてきた。高性能なイージス艦や潜水艦は、政府が主張するには、他国に侵略的な脅威を与えない武器だという訳だ。こうした憲法の拡大解釈は、多くの場合、法的妥当性を十分に確保できない場合が多く、同様の点は集団的自衛権の行使についても同じことがいえる。

政府はこれまで、自衛権行使について3つの要件と呼ばれる制限を課してきた。自衛権を発動するためには、第一に、防衛行動以外に手段がなく、そのような防衛行動をとることがやむを得ないという「必要性の要件」、第二に、外国から加えられた侵害が急迫不正であるという「違法性の要件」、第三に、自衛権の発動としてとられた措置が加えられた侵害を排除するのに必要な限度のもので、釣り合いがとれていなければならないという「均衡性の要件」の3点だ。例えば、ある国が3日間の作戦行動で沖縄本島を空襲後、部隊を上陸させ、自衛隊員を含む戦闘員や民間人を多数殺害したとしよう。これに対して、日本側が自衛隊を派遣し、敵戦闘部隊を排除するといった実力行使が自衛権の発動となる。必要性・違法性・均衡性の3点全てを満たすことが、自衛戦争と侵略戦争を明確に区別する基準となる訳だ。

上述の自衛権は、集団的自衛権と区別するために個別的自衛権と呼ばれることが多い。個別的自衛権の場合、他国の攻撃の対象が、日本の領土や船舶、人員となることで発動でき、これは国連憲章51条でも認められた権利でもある。今回問題となっている集団的自衛権は、国連憲章で個別的自衛権が明文化された際に新設された比較的新しい権利だ。この権利について芦部氏は「他国に対する武力攻撃を、自国の実体的権利が侵されなくても、平和と安全に関する一般的利益に基づいて援助するために防衛行動をとる権利」としている。先程の例に当てはめると、沖縄を侵略しようと接近してきた某国の軍隊が、日本の接続水域内で米海軍の駆逐艦に遭遇、攻撃を加えた時点で、日本が海上自衛隊を派遣し、駆逐艦の援護と攻撃部隊への反撃を加えるといったシナリオが集団的自衛権の行使となる。

今回、政府は、従来の自衛権3要件に代わって新3要件と呼ばれる新たな基準を定めた。新3要件では、①我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合に、②これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がない時に、③必要最小限度の実力を行使することの3点が集団的自衛権を行使する上で必要とされた。

こうした憲法9条の拡大解釈による集団的自衛権の正当化を疑問視する声は強い。ただでさえ、積極的平和構想の実現に成功していない日本が、集団的自衛権までもを認めるとなると、そもそも憲法制定当時に目標とされた平和実現に向けた崇高な理想がなし崩しになってしまう。日本の憲法が、これほどまでに特有であった背景には、自衛権さえも批判すると解釈できる余地のある厳格な平和追求の姿勢にあった訳だが、他国が当然のように保有する集団的自衛権までもを日本が保有するとなると究極的な平和の実現はいよいよ理想のまた理想の世界へと旅立ってしまう。

賛成も反対も、決めるのは日本人自身だ
日本国民が、終戦後の厳しい生活を生き抜いた人々の意志を継がずに、武力を通じた平和維持へと舵をきるというのであればそれはそれで勇敢な選択というわけだ。だが、このような重要な問題は、安部首相が閣議決定で簡単に解釈できるというわけでもなさそうだ。戦争反対と叫ぶ集団的自衛権反対デモ参加者は、周辺国の軍事的拡大意欲の動機に今の日本があるという現実に直面しなければならない。その一方で、今回の動きに賛成する人々は、それ程までに激しく賛同できる程重要な問題であったからこそ、憲法の拡大解釈といった煩わしい方法をとるのではなく、正々堂々、憲法改正による集団的自衛権の明記を訴えた方が良いのではないか。

集団的自衛権を含む安全保障の議論は、日本国憲法を措いて議論されるべき論題ではない。今回の安倍氏の閣議決定は、集団的自衛権賛成派、反対派の双方に合理的な疑問を投げかける余地がある以上、問題があると結論付けられる。これほどまでに重要な問題を日本国民の民意を問うこと無く閣議で決めてしまうのであれば、せっかく衆参両議院を通過して無事に制定された憲法改正手続きを確定させるための改正国民投票法も今頃泣いているに違いない。

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