たいらくんの政治経済。

BLOG

2014/12/21

トヨタが描く未来とMIRAI

MIRAIはこれからの自動車の常識を変えられるだろうか

今月15日から国内での発売が開始されたトヨタの新型FCV(燃料電池車)、MIRAI:ミライ。その名の通り、未来的でスタイリッシュなデザインと内装を誇るMIRAIの燃料は水素のみ。従来のガソリン車やハイブリッド車とは異なり、二酸化炭素を一切排出せず、出るのは水だけ。まさに究極のエコカーといえるMIRAIは、これまでの自動車の常識を覆せる可能性を大いに秘めている。

アメリカの情報サービス大手のBloombergは、水素ステーションの建設等、燃料電池車を普及させる上で必要不可欠なインフラが十分に整っていない中でのMIRAIの発表の背景には、トヨタの現代表取締役社長である豊田章男氏の特別な想いがあったのではないかと分析する。同氏の祖父にあたるトヨタ創業者の豊田喜一郎氏は、黎明期にあった自動車産業が将来大きく成長することをいち早く確信した人物の一人。ガソリン車の普及という壮大な目標に向けて尽力していた同氏は、その夢半ばに57歳という若さでこの世を去ってしまったが、今年5月に58歳の誕生日を迎え、祖父の年齢を初めて上回ることになった豊田章男社長にとって、MIRAIの発表は、単なる新型モデルの発表以上の、いわば自動車産業の歴史の転換点としての象徴的な意味合いをもっているはずだという。

事実、MIRAIに関するホームページには、MIRAIを単なるエコカーのターニングポイントとしてではなく、自動車の歴史のターニングポイントにしようという強いメッセージが記されている。そんなトヨタの想いと世界最高レベルの技術の結晶ともいえるMIRAIは、実用に耐えうる十分な性能を誇っている。駆動用バッテリとして34個のニッケル水素電池を搭載し、最高速度は175km/h。加速性能は0-100km/hで10秒と、一般のガソリン車と遜色ない仕上がり。駆動性能の他にも、極めて高い安全性能も備えており、ミリ波レーダー方式を採用したプリクラッシュセーフティシステム(衝突予防安全装置)や隣の車線を走る車両を感知するブラインドスポットモニター等、最新のセーフティーシステムも搭載されている。なによりも重要なポイントが、燃料がガソリンではなく水素であるために排出される二酸化炭素の量がゼロで、水素タンクを1度満タンにすれば、約650kmの連続走行が可能という点だ。

もっとも、原油価格の下落でガソリンの一般小売価格も低下しているという状況の中で、MIRAIの購入を考えている人々の最大の関心事といえば、燃料となる水素の市販価格ではないだろうか。今年11月には、全国各地で商用水素ステーションの整備に取り組んでいる岩谷産業が、都心部での水素の小売価格を1,100円/kgに設定すると発表。同社のホームページには、6月に経済産業省・資源エネルギー庁が発表した水素・燃料電池戦略ロードマップの基準に則り、2015年は「ガソリン車の燃料代と同等以下」、また、2020年には「ハイブリッド車の燃料代と同等以下」の実現を目指すと明記されている。

トヨタが公表しているデータによれば、MIRAIの場合、走行距離1kmあたり約10円の燃料費がかかるということなので、タンクを1度満タンにするのに約6500円の費用がかかる。1kmあたり約10円という燃費は、プリウスやアクア等、トヨタが既に市販しているハイブリッド車の燃料費と比較すると依然として高いものの、通常のガソリン車よりは低い。今後、水素ステーションの普及に伴って、水素価格の低下・安定化が見込めるため、とりわけ環境に配慮したエコライフを送りたい消費者にとっては、十分現実的なレベルの経費というわけだ。

気になるMIRAIのメーカー希望小売価格だが、税込み723万6000円からと少し高めの価格設定。まだ普及していない最新の技術を搭載した車ということで分からなくもないが、これでは多くの人にとってそう簡単に手がだせるものではないだろう。もっとも、MIRAIの場合、政府のエコカー補助金・優遇制度に加えて最大約202万円のクリーンエネルギー自動車等導入促進対策費補助金が支給されるため(支給条件として最低4年間の保有義務の履行が必要)、225万円程小売価格よりも安く買うことができる。こうした公的な補助制度が、MIRAIの購入を検討している消費者を後押しすることは間違いはないだろう。

トヨタが満を持して発表したMIRAIだが、燃料がガソリンと同様、引火性のある水素を用いているために、安全性に疑問を呈する声が少なくない。だが、R水素ネットワークは、水素が爆発するから危険と誤解される主な根拠に、①水素の燃焼範囲が広い②極めて小さなエネルギーで着火する、という2点が挙げられるとした上で、『空気に4%混ざると燃える気体になる水素ですが、拡散性が高いため、開放した空間で濃度4%以上になることは、ほとんありません。空気より軽い水素は漏れ出て酸素と混ざり、燃え始めた瞬間に上昇し消えてしまっています。「素早く拡散する」という安全確保上有利な物性は、実験でも証明されています』と説明。トヨタ側も、ガソリン車同様、引火爆発の危険性はあるものの、実用上必要な安全基準は満たしているという姿勢を崩さなかった。ちなみに、トヨタが独自に実施したMIRAIの安全性能に関する検証実験の過程では、水素タンクに穴を開けても、その瞬間燃料の水素が気中に拡散するために、引火爆発の危険性は極めて少ないと結論づけられている。

具体的に水素で動く燃料電池車がどれほど安全であるかについては、今後更なる検証が必要となるわけだが、環境を汚染しない燃料電池車の普及は、持続可能な社会に向けての重要な要素となり得ることは間違いないだろう。既に国内での販売が開始されたMIRAIだが、アメリカやヨーロッパ等では、来年以降の発売となる。トヨタが描く未来は、MIRAIの成功に懸かっている。

2014/12/18

Spotifyは日本市場で成功できるのか

Spotifyの日本上陸は果たして実現するのだろうか

2006年に設立され、2008年10月からスウェーデンでサービスを開始したSpotify。2011年にはアメリカの音楽産業にも参入し、これまでに32カ国への進出を実現している。今年5月には、ユーザー数4000万人を突破したと発表。参入障壁も多く、新規参入で安定した利益を生み出すことの難しい音楽産業で、文字通り、破竹の勢いで規模を拡大し続けるSpotify。その最大の特徴は、なんといっても有料ユーザー数の多さであろう。ユーザー数の内訳に着目してみると、総ユーザー数の実に約25%に相当する約1000万人が有料会員。ちなみに、その月額使用料は、イギリスの場合は£9.99(約1800円)、アメリカ$9.99(約1200円)、オランダを含むユーロ圏では€9.99(約1500円)と各国各地域で流通している通貨レートで若干の差があるものの、ネットサービスの月額料金としては決して安くない料金設定となっている。 

まずは簡単にSpotifyのサービス内容を説明しよう。有料会員の場合、無料会員と比べて高音質で再生できる他、音声広告もなく、プレイリストがシャッフルされることなく自由に聴きたい曲を選ぶことが出来る。無料会員は、ある程度質の高い音質で再生できるものの、聴きたい曲を選ぶことはできず、再生されている曲が気に入らなければ、回数制限はあるものの、次の曲へとスキップすることができる。一見、面倒で効率の悪い仕組みのようにも思えるが、アーティスト毎や曲のジャンル等まとまった曲のグループでシャッフルされるため、これまで聴くことのなかった曲を聴く機会が増え、新しい自分好みの曲を見つけることもできる。 

4000万人というユーザー数は、音楽ストリーミングサービスとしては世界最大級。2013年の売上高は実に7億4686万ユーロで、2012年の4億3028万ユーロと比較しても前年比74%近い成長を遂げた。Spotifyの売上高の91%は、上述の有料会員からの月額使用料から発生しており、残りの9%は広告収入等が占めている。売上の大半を広告収入に依存している多くのネットサービスとは異なるビジネスモデルを誇るSpotifyだが、1年で1100億円近い売上を記録する一方で、同社は昨年5780万ユーロ(約85億円)もの純損失を記録している。2012年の純損失8670万ユーロよりも減ってはいるものの、多くのユーザーを抱えてもなお1ユーロの利益も出せずにいる。 

その理由の一つとして、Spotifyが各国のレコードレーベルに支払っている著作権使用料が挙げられる。Spotifyは現在、ワーナーミュージック・グループ等の大手レコードレーベル等と契約を結んでおり、1再生当たり約0.7~1円程の使用料をレコードレーベルに支払っており、こうした著作権使用料の支払いは、Spotifyの売上高の7割近くを削っている。また、同社がユーザー数獲得のために海外の新規市場開拓を目的とした多額の投資を繰り返してきたこともまた、売上が利益へと直結していない要因となっている。 

とはいえ、徐々にその存在感を強めているSpotify。このままサービス提供国を増やしつつ、有料会員の割合を高めることができれば、多額の利益を生み出すに違いない。欧米の若者を中心に絶大な支持を集めてきたSpotifyだが、日本ではそれほど知られていない。それもそのはず、日本では依然としてサービス提供がなされておらず、数年前にSpotifyが公式に日本でのサービス開始が予告されてから時間だけが過ぎている状況だ。音楽情報サイトのMusicman-NETでは、特別連載として「取り残される日本 Spotifyのジャパン・パッシングはなぜ起きたか」といった記事を掲載しているが、半年前までSpotifyの採用情報ページ上で東京勤務の会計担当者のリクルートを行っていたことからも、Spotifyが完全に日本市場を無視しているとまでは言いにくい。 

Spotifyの日本市場参入が難航している背景の一つに、日本の音楽産業の特徴ともいえるCD売上中心の産業構造が挙げられる。日本レコード協会の報告によると、昨年のCDを含む音楽ソフトの生産額は2704億円。一方で、有料音楽配信サービスの場合は416億円と低い。世界各国で音楽配信サービスが成長する中で、日本の音楽産業は低迷の一途を辿っており、CDも音楽配信サービスも年々市場規模を縮小し続けている。こうした特殊で縮小気味な日本の音楽産業への進出にSpotifyが二の足を踏んでいるのも、単純に利益を出せる見込みに乏しいからではないのか。東京オフィスでのリクルーティングとして会計担当を募集していた理由も、果たして日本で儲かるのかどうか確かめたかったのではないかと邪推してしまう。 

そこで、筆者なりにSpotifyが日本市場で成功を収めるための3つの提案をしてみたい。まずは、広告重視の収益モデルの強化。Spotifyを無料会員として利用すると、音楽再生中に時折ランダムに音声広告が流される。一見、広告というと鬱陶しい存在に思えるが、音楽と音楽との間に20秒程の広告が入ることはそれほど気になることでもなく、欧米風のドラマチックな演出やジョークを交えた音声広告であれば、新鮮な感じもする。無料と新しいもの好きな日本人であれば、テレビで嫌というほど慣れている広告など気にも留めないかもしれない。まずは、有料サービスの重点化というよりも、無料を謳い文句にアクティブユーザー数を増やすことのほうが先決かもしれない。有料会員になれば、音楽再生中にランダムに流れる音声広告等が取り払われるため便利ではあるものの、円安もあってかアメリカやイギリス水準のの月額使用料は割高感が否めない。既に日本市場には、ソニーが提供しているミュージック・アンリミテッドという月額980円の音楽配信サービスがあるため、1000円を超える月額料金の設定は、もはや現実的ではない。 

次に、日本の大手レコードレーベルとの契約の他にも、ネット上で活躍するアマチュアミュージシャンやニコニコ動画で有名な所謂「歌い手」を支援するクリエイタープログラム等を立ちあげて、ネットユーザーの認知度や関心度を高めることも日本市場での成功の鍵となるかもしれない。既存のサービスやミュージシャンといかに連携を強められるかは、日本の音楽市場を制覇する上で注意しなければならない点の一つだ。Spotifyがこれまで通り、アメリカやイギリスのミュージシャン中心のラインナップのまま日本市場に進出しても、依然としてJ-POP人気の強い日本では苦戦を強いられるだろう。Spotifyは、プレイヤーやアプリのデザインにも見て取れるように先進的で洗練されたデザインが特徴的。Spotifyがこうした芸術的なデザイン性を売りにアマチュアのミュージシャンの心を掴んだ上で、彼らが自らの音楽を売るプラットフォームとしての地位を獲得できれば、Youtubeや他の動画配信サービスではほぼ全くといって良いほど利益の出せない新しいミュージシャンにも活躍の機会をもたらすに違いない。 

最後に、具体的なサービス使用場面を意識した効果的なプロモーションの必要性。公共交通機関が発達し、人口過密気味な日本の主要都市では、スマートフォンやMP3プレイヤーで音楽を聴いている人々が決して少なくない。電車での通勤や通学場面でのSpotifyの活用は大いに有り得るシチュエーションだ。毎日のように通勤通学している日本人の多くは、毎回同じプレイリストを聴くことに飽々しつつも、その適切な解決方法を探せずにいるかもしれない。Spotifyは、ユーザーの好きなアーティストや曲のジャンルというおおまかな基準の中で曲をシャッフル再生するという仕組みために、これまでユーザーの聴いたことのないユーザー好みの曲を見つけやすいという最強の謳い文句がある。こうした具体性に富んだプロモーション活動を行えばきっと、日本人ユーザーの獲得に繋がるかもしれない。 

音楽ストリーミングサービスのグローバルスタンダードになりつつあるSpotifyであるが、日本に上陸する日は果たして来るのだろうか。ヘビーユーザーの一人としては、Spotifyの日本でのサービス開始のその日が来るのが待ち遠しいて仕方ないといったところだ。

2014/12/09

違和感しかない反特定秘密保護法のSASPLの活動



特定秘密保護法に反対する学生有志の会SASPL(Students Against Secret Protection Law)は、今月10日に施行開始予定の特定秘密の保護に関する法律への抗議を目的とした2日間にわたる首相官邸前デモ活動を実施すると宣言。デモ活動1日目を終えた今日、TwitterやFacebook等のSNS上では、SASPL主催のデモ活動への参加報告や応援コメント、2日目のデモ活動に向けて意気込む投稿が目立った。慢性的な不況の影響から、暫くの間厳しい就職氷河期に身を晒さなければならず、希望すら持てないようになっていた日本の若者が、若者の草食化なる不本意なレッテルを剥がそうと何かと熱心に取り組むその姿は、世間からの注目を浴びるようになった。若い世代が元気であることに越したことはないのだが、残念なことに(若気の至りともいえるかもしれないが)そのエネルギーはあらぬ方向に逸れ続けている。 

そもそも彼らが問題としている特定秘密の保護に関する法律、通称、特定秘密保護法とは一体どんな法律なのだろうか。昨年12月13日に交付されたこの法律の総則には、同法の目的が記されている。

「この法律は、国際情勢の複雑化に伴い我が国及び国民の安全の確保に係る情報の重要性が増大するとともに、高度情報通信ネットワーク社会の発展に伴いその漏えいの危険性が懸念される中で、我が国の安全保障(国の存立に関わる外部からの侵略等に対して国家及び国民の安全を保障することをいう。以下同じ。)に関する情報のうち特に秘匿することが必要であるものについて、これを適確に保護する体制を確立した上で収集し、整理し、及び活用することが重要であることに鑑み、当該情報の保護に関し、特定秘密の指定及び取扱者の制限その他の必要な事項を定めることにより、その漏えいの防止を図り、もって我が国及び国民の安全の確保に資することを目的とする」 

よくある法律と変わらず長ったらしいので簡単に要約すると、「インターネットが普及してきて国の安全保障に関わる情報が漏れやすくなったから最も重要な情報は特定秘密としてちゃんと管理するよ」ということ。同法三条には、その特定秘密の対象となる事項が「当該行政機関の所掌事務に係る別表に掲げる事項に関する情報であって、公になっていないもののうち、その漏えいが我が国の安全保障に著しい支障を与えるおそれがあるため、特に秘匿することが必要であるもの」であると示されているが、何度読み返しても結局のところ何が秘密の対象となるのかはいまいちはっきりしていない。 

政権与党である自民党は、ホームページ上に掲載しているコラムで「自衛隊の保有する武器の性能や重大テロが発生した場合の対応要領といった、国と国民の安全にかかわる重要な情報」等が特定秘密の対象となると説明しているが、特定秘密かどうかの判断は行政機関の長が下すため、政府による恣意的な情報隠蔽が行われるのではないかという批判が殺到した。事実、法律制定の過程でも、具体的にどのような基準でどのような事項が特定秘密として指定されうるのか、という問題を巡って熱論が交わされた。 

こうした批判に対して、自民党は「[特定秘密]指定が恣意的に行われることがないよう、政府は、安全保障に関する情報の保護、情報公開、公文書管理等の有識者の意見を聴いた上で、特定秘密の指定等の基準を作成することとしており、大臣等は、当該基準に基づいて指定を行うことになります」と説明しているが、知りたがり屋の反対派の怒りを鎮めるには至っていない。もっとも、同法律が具体性にかけており、特定秘密の指定基準が明確でないという批判は十分に的を射ているように思えるが、個人的には、今まで国と国民の安全にかかわる重要な情報を保護することを目的とした法律がなかった方が恐ろしいと感じる。 

自民党の説明を読む限り、同法律の目的があくまでも漏れたら国や国民に深刻な影響を与えかねない重要な情報のみに限られていることは明らかだが、想定されている法律運用がまるでなされず、国民が知るべき有益な情報までひた隠しにされては困る。そういった考えられる問題を防ぐ意味でも、法律施行後も慎重に状況を見極める必要は当然にある。だが、そもそも人間というものは、他人が知っていて自分が知らないことという状況を認識するとどうしても知りたくなるものではないか。好奇心ともいえるこの性質は、誰しもが本能的に持ち合わせている性質のひとつであり、多かれ少なかれ度が過ぎることで痛い目に遭うものではないかと思うのだ。少し冷静になって考えると、同法律が特定秘密に指定するであろう情報、例えば、自衛隊の装備の詳細仕様や運用情報、北朝鮮問題等の外交情報等は国民が知ったところであまり意味はない上に、他国に知られてしまえば対策を講じられてしまう可能性も高い。加えて、アイスケースに入る姿を自ら熱心に他人に伝えたがる人が少なくない今の世の中、自らの利益や秘密はおろか、国全体の安全保障に関わる利益や秘密を守ってくれない国民がどれだけ存在するのか考え始めると寒気さえ感じる。 

とはいえ、反対派の怒りは、単純に同法律が何をどんな基準で特定秘密に指定するのか明確でないという点だけに集中しているというわけではない。賛成派・反対派の双方ともに、同法律が国や国民生活に関わる重大な影響を持っているという点では意見が一致しているようだが、反対派の人々に言わせれば、これほど重要な問題に関連した法律であるにも拘わらず、あまりにも性急に過ぎるというわけだ。実際、同法律制定に係る法案は、昨年11月26日の安全保障特別委員会で強行採決された後に、同日中に衆院本会議を通過し、翌月5日には国家安全保障特別委員会も強行突破した上で、同月6日の参院本会議で正式に可決成立するという過程は、誰の目から見ても、王将の餃子提供時間並に短いように感じる。もっとも、急いで制定した割には、施行日が施行開始までの最長1年間という期限ギリギリの今月10日に決まったことからも、政府としても結局のところ慎重にならざるを得なかったのだろう。 

前述のSASPL(そもそも首相官邸の英文資料によれば英訳正式名称はThe Act on the Protection of Specially Designated Secretsだから、SASPLじゃなくてSATAPSDSじゃないの??てかなんで日本の法律なのに英語略称なの??)は同法律について、「特定秘密保護法は、独立性の高いチェック機関を持たないままに行政が曖昧な秘密の範囲を指定できるなど、行政の暴走を防ぐことのできないままに私たちの「知る権利」を奪いかねないものです。また非常に重い刑罰規定やプライバシーの侵害となりかねない適正評価制度など、私たちの自由が、三権分立の効かない行政権の暴走によって著しく脅かされる可能性をはらんでいる」として、強い懸念を示しているが、そもそも国家安全保障に関わる情報に独立性の高いチェック機関がアクセスできるようになってしまえば、更にそのチェック機関をチェックするチェック機関が必要で、そのチェック機関をチェックするチェック機関も情報にアクセスできるなら更に...というように秘密を守る上で鉄則ともいえる、「可能な限り知っている人を少人数に留めておく」ということが難しくなってしまう。 

そもそも行政の暴走を抑える最終手段とも言える選挙・投票行動を全世代中最も疎かにしている若者世代が、自民党の石破茂幹事長に「単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます」と馬鹿にされてしまうようなデモ活動を始めるくらいなら、もっと周囲のAKB選挙で投票行動のプロになっている同世代の仲間たちに声をかけて一緒に投票に行ったほうが何倍も良いのではないか。夜遅くまでデモ活動を平日に実施して翌朝の大学での講義に遅刻しているようではパパもママもきっと今頃怒り狂ってるはずだ。 

もっといえば、今回の法案を取り上げて、国家機密レベルの情報を知り得ないことが知る権利を害することになると主張するくらいなら、より身近な、例えば、民間企業の個人情報保護に関する問題の方を取り上げるべきだった。大学生が大好きなLINEやFacebookをはじめとするSNSの個人情報規約は、特定秘密保護法並に具体性に欠けている場合が少なくない。殆どの場合、サービスの利用を始めた時点で仮に利用後に規約が大きく変更されても、サービスの利用を続けることで新しい規約を受け入れたことになる。このことがどんな危険性を孕んでいるか、特定秘密保護法の危険性を声高に主張しているSASPLの関係者ならきっと分かるはずだ。 

SNSの急速な普及によって、誰もが自らの私生活に関する情報を気軽に他人とシェアできるようになった。ある研究では、Twitterの投稿内容をある程度調べることでユーザーの住所や性別、趣味さえも事細かに理解することができるのだという。本名での利用が長らく前提とされてきたFacebookでは、住所や郵便番号はもちろん、所属大学や勤務先さえもいとも簡単に知られてしまう。最近になって、Facebook社はこうした情報をユーザーが簡単に自分で管理出来るように仕様を変更したものの、未だ多くの人の重要な個人情報がグローバルに発信されているのだ。国や国民によって、大学生がどんな激しい飲み会を未成年の後輩達に強要しているか、どの学生が他人の彼氏と浮気しているかなど、知ったこっちゃないわりと重要性の低いどうでも良い情報に過ぎないが、当の学生本人にしてみれば、学期末試験の過去問情報並みの機密情報に他ならない。ところが誠に残念なことに、こうした学生にとっての特定機密は、今回政府が施行開始した特定秘密の保護に関する法律では守ることさえもできないのだ。 

さぁ、12月に入ってからそろそろ本格的に寒くなってきた。首相官邸前でデモをするくらいなら、お家に帰って友達と一緒に鍋でもしたらどうだろう。あ、そうだ。せっかく第47回衆議院議員総選挙が次の日曜日に迫ってきているのだから、どこの政党に投票するか話し合ってみるのも良いかもしれない。東京1区に出馬している世界経済共同体党代表の又吉イエス氏なら頼めばきっと大学の期末試験なくす法案を提出してくれるだろう。

How far is the magistrates' court in need of reform?

Magistrates' Court Reform is one of the key topics in the field of English Criminal Justice System.

The magistrates’ Court is perhaps one of the busiest divisions in the English judicial system, which currently undertakes approximately 95 per cent of the criminal cases in England and Wales (Davies, 2010: 271-272). The magistrates’ court is functioning as a lower court, however, since the court processes the most of the criminal cases, it is playing an essential role in the English criminal justice system. This article will discuss how far is the magistrates’ court in need of reform by analysing the outcome of the recent field trip to Reading magistrates’ court. The details of the two criminal cases will be given, followed by a brief analysis of several recent academic studies on the magistrates’ court reform. It will be concluded that the substantial functional enhancement of the magistrates’ court, such as the expansion of jurisdiction (Green, Ministry of Justice: 2013), is indispensable to reduce the amount of public spending on the current judicial system and to attract more civil awareness towards criminal actions, which may ultimately lead to more reasonable and effective system.

As mentioned above, this article will focus on two criminal cases, which have been assessed by Reading magistrates’ court on 31st of October. The first case was committed by a male offender, who has stolen a 15GBP worth of meat products (a leg of lamb) from one of the stores of Sainsbury’s. Upon realising, he has been caught on a CCTV camera and was arrested after he walked out of the store. Although he pleaded guilty immediately after the beginning of the case and the amount of the damage was relatively small, three of the magistrates considered the case seriously since he has a possible sign of illicit drug use and eventually they imposed a fine of 105GBP including 15GBP of compensation for the stolen meat on him in addition to a six-month community order. In contrast, the second case was committed by two Romanian male migrant workers, who have conspired with each other to purloin some 500GBP worth of garments from TKMaxx. Both of the Romanian defendants pleaded guilty and they claimed that it was unavoidable to commit the theft since they have recently lost their car wash jobs and their financial condition was in a critical situation at that moment. However, the magistrates have acknowledged that the crime was carefully planned and vicious because they drove over 120 miles to Reading from their home town to commit the crime and one of the defendants was acting as a human shield in order not to be detected by a shop clerk, which resulted in the serious disturbance of the initial police investigation. In response to this, the solicitor repeatedly emphasised the point that the defendants have suffered continuous destitution for a long period since they have been paid only 35GBP per day. Furthermore, given the situation that they have been dismissed from the car wash company, which used to contribute to maintain a tiny shred of hope, they have been impelled to give up their life plan. Interestingly, however, the magistrates’ attention was mainly focused on whether the offenders have a plan to return to their country or not. When the magistrates discovered the fact that the Romanian offenders were going back to Romania immediately after the court case, one of the magistrates nodded her head. In the end, three magistrates agreed to impose a fine of 50GBP on them and no particular compensation order has been made. Although the magistrates have given the punishment, the defendants have to wait within the court building until the local police issue the criminal reference number. The defendants’ solicitor seemed overcame with surprise and he put up opposition that the defendants should be released immediately after the court case since the criminal reference number should have been provided to the court earlier. Although the solicitor pointed out that there were a potential neglect of duty and a breach of Criminal Procedure Rules committed by the local police and the magistrates’ court, he reluctantly agreed to wait at the court with the defendants.


Magistrates are mostly unqualified citizens from local towns.

Whilst these two cases can be categorised as petty theft, the punishment for each case was considerably different. For instance, the former case, which caused a damage of 15GBP, resulted in a 105GBP fine and a low-level community order, however, the latter case, which caused a damage of 500GBP, resulted in a 50GBP fine for each offender only. However, according to Magistrates’ Court Sentencing Guidelines, it is clear that the Romanian workers should have received harsher punishment (Band B fine to medium level community order) for the crime since the court has found some evidence to prove that they had some planning to commit the crime. Although the assessment of the culpability of the case and the sentencing decision is made depending on the seriousness of the crime (Sentencing Guidelines Council: 2008), the reason why the Romanian offenders received relatively small fines is unclear. Additionally, although a smooth cooperation between with magistrates’ court and police organisations is crucial to maintain the quality and efficiency of justice, there were some technical or human errors occurred during the court case such as the delayed submission of the criminal reference number.

Despite the fact that the court did not spend more than an hour on reviewing the cases since both cases were summary offences, the court observed criminal procedure rules including the examination of a witness and the submission of sufficient evidence. The procedures gave the impression that the magistrates seemed to have already acquired the legal qualifications in order to serve as a magistrate at the court because the court proceedings were formal and dignified. However, it is astonishing to notice that the magistrates are usually consist of unpaid volunteers and their position does not necessarily require any professional legal qualifications, which means they are mostly ordinary citizens came from a variety of personal backgrounds. According to the government’s webpage, candidates who want to become a magistrate have to fulfill some non-legal requirements, such as age, health condition, personal qualities and characters. Candidates have to be over 18 and under 65 and they must have a certain level of condition to meet all the health and personal requirements. That is to say that the vast majority of the citizen of England and Wales can be a magistrate. With regard to this point, as stated by Malcolm Davies, although all magistrates’ court are advised by a team of legal advisers who, must be a barrister or solicitor, since magistrates have final authority to make decisions, the constitution of magistracy has triggers some reasonable criticism such as what is the justification for “such vital roles as the adjudication of guilt and the sentencing of the offender to be carried out by amateurs, who cannot be expected to appreciate the finer points of criminal liability, let alone the complexities involved in making sentencing decisions” (Davies,  2010:271-276). However, the government clearly states that the candidates are required to complete mandatory training session in order to maintain the quality of justice (GOV.UK, Ministry of Justice, 2014). Moreover, it can be said that the current system of magistrates’ court seems appropriate since it is successfully representing reasonable degrees of gender, ethnic and generational diversity (Davies, 2010:274-276). According to Davies, nearly half of the magistrates are female and the participation of ethnic minorities in the system is steadily increasing, which contribute to maintain a certain degree of diversity (Davies, 2010:274-276). It is assumed that although there is some concern over the role of magistrates, the participation of ordinary citizens in the criminal justice system has positive effect, such as the cost-effectiveness of the system and the diversity of magistrates. Although the government is trying to strengthen the power and influence of magistrates’ court by increasing the limit of fines (Green, 2013 & Dean, 2014), the research conducted by The Civil Liberties Trust indicates the fact that magistrates’ courts attract less public confidence than jury trial (Said, 2002: 4). As stated by Damian Green, the effective use of magistrates’ court will reduce the cost of judicial system, however, it is also essential to improve the public confidence in the system to realise the court reform (Green, 2013).


In conclusion, it can be argued that the role of magistrates’ court is important since the court system directly facilitates ordinary citizens to participate in the process of the criminal justice system. Magistrates are mostly unqualified unpaid volunteers who live in England and Wales came from diverse personal backgrounds. Magistrates’ courts have successfully representing social diversity, since more female citizens and ethnic minorities are participating in the system as magistrates. Although the government is trying to enhance the function and the role of magistrates’ courts since such a reform will lead to reduce the amount of public spending on the criminal justice system, one of the researches on the public awareness towards magistrates’ courts indicates that the courts attract less public confidence than other trial system. It is submitted that the magistrates’ courts reform in general is acceptable, however, there were several human errors and issues in judicial consistency, such as the delayed submission of criminal reference number, which need more consideration.



Bibliography
- Davies M, Croall H, Tyrer J (2010) Criminal Justice, Harlow: Longman, 4th edition
- Dean L, (2014) “Speeding Fines Up to £10,000 Under Magistrate Courts Reform”, International Business Times
- Green D (2013) “Reforming the role of magistrates”, Ministry of Justice, GOV.UK
- Magistrates’ Court Sentencing Guidelines, Definitive Guideline, Sentencing Guideline Council
- Newburn T (2012) Criminology, Routledge, London: 2nd edition
- Said T (2002) Magistrates’ Courts and Public Confidence, A proposal for fair and effective reform of the magistracy, The Civil Liberties Trust: London

2014/08/25

革新的なデジタル世代の海外旅行へようこそ

デジタル世代の海外旅行はこうも美しく効率が良い

アメリカの研究者マーク・プレンスキー氏が生み出した、デジタルネイティブという言葉。生まれながらにITに親しんでいる世代のことを指すが、この世代において最も中心的な役割を果たしてきた1990年以降に生まれた世代は、情報の在り方や消費行動だけでなく、この世界そのものを変えようとしている。

広大なインターネット世界での移動手段となるデバイスを手に、情報の大海原を縦横無尽に駆け巡る彼らの中には、現実の世界さえもインターネットの力を借りて自由に旅する人々も決して少なくない。

そもそも、海外旅行自体が既に珍しいものではなくなった。国連世界観光機関の公開統計情報では、2012年に観光目的で外国を訪れた人々の数が10億人に達したことが明らかにされている。アメリカ国勢調査局の推計では、同年3月頃の世界人口が約70億人に到達したと見積もられていたので、全世界の7人に1人が2年前に外国を訪れたことになる。

今や多くの人々に愛されている海外旅行。慣れ親しんだ母国とは全く異なる環境を見て回ることは、それだけでも十分意義のあるものだが、異なる環境であるが故にトラブルも少なくない。場合によっては、経済的・物理的損失を伴う犯罪に巻き込まれてしまう可能性さえもある。

言葉も違えば文化も考え方さえも違う渡航先での日々は、往々にして非効率で経済性に乏しくなる場合が多いが、そんな中、前述のデジタル世代は、常に革新的な手段を用いることで海外旅行の在り方さえも根本的に変え続けている。

金銭的な余裕のあったバブル世代のように、海外といえばハワイとグアムのような南国リゾートを思い浮かべて、比較的高めに設定された手数料も宿泊費も気軽に支払えるような時代はもうずっとずっと昔の話。今となっては、もっと自由に、もっと手軽な価格で様々な国を訪れることができるようになった。どの国の、どの場所に行けば、最も自分が思い描いてきた旅行プランに近付けられるか、異国の地に思いを馳せつつ具体的なルートや宿泊先、訪れるべき観光名所等の情報を自ら少しずつ集めていくことは、こうした新しい海外旅行の楽しみ方を満喫する上での必要な下準備となる。

それでは、そんなデジタル世代の海外旅行の仕方とはどのようなものか、東欧を旅する中で出会った達人級のバックパッカー達との会話を通して知り得た情報の中で明日にでも使えそうな位実用性の高いものをいくつか紹介したい。

まず、必要となるのが航空券。バックパッカーの多くは、格安航空会社やフラッグキャリア等主要な航空会社が提供している航空券の中で安い順に表示してくれるスカイスキャナー(www.skyscanner.jp)やエクスペディア(www.expedia.co.jp)を利用している。渡航予定日を予め決めていれば、可能な限り早めにこうしたサイトで航空券を確保することで、正規運賃よりも安く購入することができる。

パリ行きの航空券もこの価格から
ただし、大抵の格安航空券には厳しい条件があり、キャンセル時の返金対応が不可能であったり、渡航日の変更等自体ができないケースも少なくない。加えて、機内持ち込み手荷物以外の荷物については追加料金が請求されることもあるので、購入時には航空会社のホームページを確認しておいた方がいい。追加料金が必要な場合は、航空券の予約時に合わせて預入荷物分の料金を支払った方が、カウンターで支払うよりも半額程度安くなる。

また、一部の格安航空会社(Air Asia等)は自社ウェブサイト上のみ一定期間特別割引キャンペーンを実施することもあるので、スカイスキャナーだけに頼らないことも航空券代を低く抑える確実な方法となる。

今では、多くの航空会社がeチケットを発行するようになり、昔のような紙の航空券を受け取る必要がなくなってきている。一部の航空会社は、自社のスマートフォンアプリをダウンロードすることで、航空券情報をアプリで確認できるようにしている。

easyJet社のアプリ画面
例えば、easyJet社であればこんなにスタイリッシュで可愛いアプリが用意されている。

次に、宿泊先。宿泊先については、安全性とサービス内容が殆ど画一的になっている旅客機と異なり、値段が低すぎると思いもしなかったトラブルや利便性の低さに直面することになるのでやや厄介だ。そこで、活用したいのがブッキングドットコム(www.booking.com/index.ja.html)。 このサイトでは、実際に宿泊したユーザーらによる豊富なレビューと宿泊施設の写真画像が大量に掲載されているので、ホテル側の過度なアピールや不利益な情報さえも事前に知ることができる。 

豊富な画像やユーザーレビューはとても参考になる
もちろん、料金順に表示することもできるので、予算を考慮しつつ安全性やアメニティの豊富さ、立地条件や朝食の有無等、個人的な条件に合わせてホテルを探すことも簡単だ。大抵、旅先には多くの荷物を持っていくことになるので、駅や空港からの距離やホテルまでの送迎サービスの有無も知りたいところ。こうした重要な情報は全て、Booking.comで詳細に知ることができる。 

こうしたホテル情報サイトで注意したいのは、基本的な情報はホテル側が掲載していることが多いという点。宿泊施設そのものの写真よりも周辺の観光地や公園等の写真ばかりが掲載されている場合は要注意。知るべきなのはホテル自体の写真なので、あえてこうした直接的に関係のない写真を多く掲載しているホテルは、設備が悪かったり、部屋が驚くほど狭くて不便だったりする。 

そして、レストラン情報。渡航先の楽しみの1つである食事。宿泊するホテルからの距離や価格、メニュー内容等も全て、トリップアドバイザー(www.tripadvisor.jp)で知ることができる。このサイトには、ホテル情報や観光地情報も掲載されているので、ホテルを選ぶときに、Booking.comと組み合わせて活用すると便利だ。 

美味しいレストランならトリップアドバイザーで探そう
トリップアドバイザーでは、ランキング形式でレストラン情報が掲載されており、ジャンルや価格帯に応じて分類することもできるので、その日の気分や好物に合わせて美味しい食事をとることができる。 

トリップアドバイザーにも、他のサイトと同様なレビュー機能が搭載されているので、料理そのものの感想はもちろん、レストランの雰囲気や従業員の様子も事前に調べることができる。もっとも、料理については、個々人で考え方や感じ方が大きく異なるので、ホテル選び以上にリスキーな選び方をしてもいいかもしれない。 

トリップアドバイザーは、観光地情報も詳細に掲載されているので、単なるレストラン選び以上の活用方法がある。もちろん、こちらもランキング形式で情報を見比べることができるので、とりわけ有名観光地の多い大都市に旅行するときには、貴重な情報源となる。

これら全てのウェブサービスは、日々ユーザー有志による情報交換や運営会社による更新によって日毎に新しい情報が掲載されるため、信頼性・正確性が高い。もっとも、旅先でこうしたサービスを利用するためには、宿泊施設にインターネット回線がある必要があるが、今どきどのホテルも無線LANや自由に使えるコンピュータ 設備を完備しているため殆ど問題にならない上、渡航前に十分に調べておいて、必要な情報だけオフラインでもアクセスできるようにブックマークしておけば完璧。 

長らくの間、旅行客の必須アイテムとして絶対的地位を確保していたガイドブック地球の歩き方も依然として貴重な情報源にもなるので、こうしたアナログ時代の便利グッズも組み合わせれば、よりスムーズな旅行を楽しむことが出来る。 

この他にも、渡航先の公共交通機関の情報や切符の予約等が行えるウェブサイトも数多く存在しており、複数の都市や国を訪れる場合に有効に使えばより手軽に移動することができる。もっとも、多くは英語を含む複数の外国語に対応しているが、日本語に対応しているサイトは少数派なのが現状だ。 

そして、最も重要なのが現金とクレジットカード。犯罪や無用なトラブルに巻き込まれないためにも、確実に管理したい。海外旅行者の多くは、多額の日本円を渡航先に持っていき、現地空港にある両替所で現地通貨に交換するが、空港の両替所はほぼ確実にレートが不利である上に、そもそも多額の現金を持ち歩くこと自体、避けるべきこと。 

実は、デジタル世代の旅行者で最も先進的で洗練されているのが、現金の扱い方。最も安全で確実なのは、海外でも使えるクレジットカードとある程度の現金を組み合わせる方法だが、海外ではクレジットカードよりも口座から直接引き落とされるデビットカードの方が人気だったりする。日本でも、デビットカードを取り扱っている銀行がないわけではないので、関心がある人はチェックしてみてもいいかもしれない。 

デビットカードでは、口座に入金している金額以上のお金を使うことができないため、クレジットカードでよくある複数購入処理詐欺や法外な額の請求を避けることができる。もっとも、口座に多額の現金を入金していては意味がない。そこで、旅行用の別口座を準備した上で、カードと組み合わせると有効なウェブサービスがペイパルだ(www.paypal.jp)。 

PayPalで現金を安全に管理できる
ペイパルでは、ネットバンキングのようにネット上のアカウントに現金を保管することができる。ペイパルのアカウントとクレジットカードもしくは銀行口座の情報を紐付けることで、安全に現金を管理することが出来る。 

例えば、30万円が現地で使う予算であるとすれば、30万円全額を財布に入れるのはかなり抵抗がある。そこで、現金としては5万円程度を財布に入れるようにして、残りの25万円のうち20万円はペイパルのアカウントに保管、銀行口座に5万円に保管しておけば、テビットカードで5万円以上の購入ができないため、詐欺やトラブルに遭っても被害を最小限に抑えられる上、ペイパルから銀行口座にお金を移すのには時間がかからないので、使った分だけペイパルから移せばいい。こう考えると、海外旅行をする上で最大のパートナーはクレジットカードというよりもデビットカードのように思えてこないだろうか。 

クレジットカードについても、上限額を事前に設定しておくことで、安全性を高めることができる。とはいえ、どんなに安全性を高めたところで、被害に遭ってしまえば幾分の経済的損失を被ることになるので、日頃から意識しておくことが何よりも重要になる。 夏休みに海外旅行をした人も、できなかった人も次なる長期休暇である冬休みに向けて、これまでの旅のスタイルを改善するのは今からでも決して遅くない。

それに、アナログ世代生まれでも、こうしたデジタル世代と同じようにインターネットを活用した効率的な海外旅行を楽しむ人も現れてきた。このようなアナログ世代のデジタル移行のことを、前述のプレンスキー氏はデジタルイミグラントと呼んでいるが、デジタル世界へのイミグレーション自体はアメリカの入国審査よりも遥かに簡単で恩恵が大きい。 

ここまで読んだなら準備は万端。さぁ旅をしよう!

2014/08/22

もう一歩先の観光大国、日本へ

日本の駅や観光施設の英語表記は十分?

ロンドン大学の研究機関で稼いだ給料を惜しげも無く注ぎ込んだ東欧旅行も今日で21日目。チェコの首都プラハは特に気に入ったが、今滞在しているポーランドも物価がとても安くて過ごしやすい。東欧の気候は8月でも日中の気温が25度程度で、日本の猛暑を伝えるニュースを見る度にまるで異世界にでもいるような気分になる。

滞在先では大抵、バックパッカーが集まるドミトリーに泊まっている。4人から8人程度で大部屋をシェアするのだが、これがまた一人旅にはうってつけの宿泊スタイル。互いに貴重な観光情報を交換できるし、朝までウォッカを飲み続けながら他愛のない話で盛り上がることもできる。

そうした会話の中で、殆ど必ずといって良いほど尋ねているのが、日本を訪れたことがあるかという質問。残念なことに、多くのバックパッカーに首を横に振られてしまうのだが、興味深いのはその理由だ。

大半は、物価が高すぎることや、アクセス性の悪さを挙げる。日本人ですら東京や大阪といった主要都市の物価が安いとは思わない上に、最近消費税も上がった。だが、実際のところ地方都市であれば物価は西欧諸国のそれと殆ど変わらない上に、安いホテルやレストランの数も決して少なくはない。アクセス性の悪さについては、バックパッカーの多くが複数国を一度に訪れる傾向にあることも関係してくるかもしれない。日本は島国なので、飛行機を利用することになるが、LCCの普及が欧米諸国と比べて遅れをとっている日本への便はまだ少し手が届きにくいのかもしれない。地理的な問題は解決のしようがないが、その分入国しやすいよう交通機関を整備することはまだまだ対応が可能かもしれない。

更に注目すべきなのが、英語が通じにくいという点。東欧に来て驚いたのが、英語はもちろんのこと、ドイツ語とロシア語とスペイン語の併記が駅や有名観光地などの標識になされている点だ。ポーランドやチェコを旅する中で、道行く人に英語で場所を訪ねても全く問題はなかった。駅員や観光地のスタッフに至っては、簡単な日本語の挨拶さえできる人も少なくない。

もっとも、言葉さえも全く通じない環境で過ごすことに意義を見出す人もいるにはいるが、バックパッカーを含む多くの観光客は最低限度の英語でのコミュニケーションが取れることを前提にしている人が少なくない。そういった視点で日本を見つめなおすと改善すべき点は多い。駅や観光施設の標識、レストランのメニュー、ホテルの室内設備の利用方法といった重要な情報は大抵、日本語だけで記載されているか、外国人にとっては意味不明すぎるローマ字表記が読めないほど小さく併記されている。東欧諸国から学べることは、基本的に全国の主要都市のレストランやホテルは英語でのメニュー表記を実施することや国内全ての空港や駅が英語はもちろん、日本を訪れている主要な観光客の言語である韓国語や中国語、タイ語での表記も進めること。

日本政府観光局が公開している統計データによれば、英語圏出身者を除く主要な訪日外国人は、韓国人(2,456,165人)が最も多く、2位台湾人(2,210,821人)、3位中国人(1,314,437人)、4位香港人(745,881人)、5位タイ人(453,642人)と続く。日本を訪れてくれる人々の母国語で必要な情報を提供することこそ、客人をもてなす最善の方法だ。

複数の言語で同じ情報を表示することは往々にして雑多な状態になりやすいが、こうした問題はデザインの向上で解決できる上に、たとえ現状よりもごちゃごちゃしたところで得られる効用の方が遥かに大きい。

最後に、これは個人的な意見だが、日本には無料で使えるwifiスポットがまだまだ少ない気がする。日本を訪れる外国人観光客にとって、ガイドブックだけでは不十分な情報は少なくない。例えば、鉄道やバス等といった公共交通機関のタイムリーな運行情報や乗換情報、レストランのレビューといった情報はガイドブックだけでは物足りない反面、インターネット上では十分過ぎる程提供されている。

ポーランド滞在中の話だが、急遽滞在先を変更したいと思った時に、下車した駅のホームにポーランド国鉄が提供しているフリーwifiがあったために、新たな滞在先までの鉄道情報やホテルの予約変更などが簡単にできた。更に、ポーランド国鉄は、鉄道の予約やキャンセルが手軽にできるスマートフォン向けアプリまで準備しており、クレジットカードの情報を登録するだけで、発券所に行く必要さえない。

そう考えると、ロクにwifiもない、JR駅員の英語力も信頼できない、みどりの窓口までの行き先を示す英語標識もない、そもそもみどりの窓口とはなにか説明する英文表記もない、なんとかみどりの窓口に辿り着いてもぐったりするほどの長蛇の列が出迎えてくれるのだから、日本はことごとく観光客に優しくない国なのかもしれない。

とはいえ、日本には十分過ぎるほどの観光資源と外国人ファンがいる。アニメ産業を主力としたクール・ジャパンはフランスやイギリスをはじめとした西欧諸国で絶大な人気を誇る上、アジアからもディズニーランドやハリーポッターで大人気のUSJを目当てに日本を訪れようとする外国人は少なくない。実際、法務省資料によれば、日本を訪れる外国人の数は、金融危機直後の2009年や東日本大震災が起こった2011年を除いて、順調に伸び続けている。

食べ物もお酒も美味しく、伝統産業も未だ活気満ち、新幹線をはじめとする世界トップレベルの安全性と正確性を誇る鉄道網に手厚い顧客サービス。日本には観光客を惹きつけるだけの余り余る程の魅力があるが故に、更なる観光大国に向けた飛躍と改善の動機を探すことは決して難しいことではない。

2014/07/09

教育王国スウェーデンの新たな挑戦

世界で最も先進的な教育制度と謳われたスウェーデンの教育モデル

義務教育の9年間を通して、台風や大雨で休校になること以上に幸せを感じた瞬間はない。徐々に接近してくる台風の最新情報をテレビや気象庁のウェブサイトで確かめながら、朝6時30分までに大雨暴風警報が発令されるのを心待ちにしていた。大学生になっても未だに休講に喜んでいる大学生は少なくないが、これはちょっと話が逸れてしまうので今度にしよう。 

休校になること程の喜びはないが、それでも小中学生にとって毎月のお小遣い日と同等かそれ以上に嬉しい日が、宿題のない日だった。宿題さえなければ、週末は思いっきり遊べるのだから、当時の僕にとって、これほど悦に入れる日は他になかった。教師から宿題がないことを伝えらた瞬間泣き叫びながら喜んだものだが、これに似た経験はきっと社会人になってボーナスが自分の給与口座に振り込まれる日にまた体験できるのだと思うと、人生とは楽しくて仕方ないものだと改めて思う。

 先日、ロンドン中心街にある勤務先に向かう途中、通勤電車の中で興味深い記事をみた。インディペンデント紙の教育特集によると、スウェーデンの南東部に位置するヴェストマンランド県の小さな市であるハルストハンマル市の市議会で、先月、 宿題禁止条例が左派社会主義政党であるスウェーデン左翼党の所属議員によって提唱されたのだという。この宿題禁止条例を推進する議員らが主張するには、スウェーデンの子供達は学校の授業時間だけで既に十分な学習時間が確保されており、従って追加的な課題を課すべきではないとのこと。この取り組みが実現すれば、ハルストハンマル市はスウェーデン初の宿題ゼロ行政区となる。市の教育委員会の議長を含む一部の教育関係者は、この条例について、「面白いアイデア」と前向きに受け取っているが、スウェーデン教育省の大臣を務めるJan Björklund氏は、「宿題を生徒に課すかどうかの判断は、市議会が決定すべき事項ではない」と反対の意志を示した。

こうした宿題禁止運動を含む教育改革がスウェーデン国内各地で熱心に議論されている背景には、スウェーデンの教育制度が先進諸国の中でも最も高い水準の地方分権的な教育政策の決定権の恩恵を享受していることが要因の1つとなっている。もっとも、第二次世界大戦後しばらくは徹底した中央集権型の教育制度であったが、より民主的で生徒一人ひとりの個性を重要視する教育観の浸透から、多くの権限が地方へと移譲されるようになった。こうした教育政策の裁量権に加えて、教育部門への積極的な投資と、高等教育を含む多くの教育施設の授業料が無料であること等の徹底した教育重視の姿勢が、国全体の教育水準と生徒の学力レベルの飛躍的な向上の実現につながった。事実、経済協力開発機構(OECD)が定期的に実施している国際学習到達度調査(PISA)の結果でも、スウェーデンは長年常に最上位レベルをキープし、教育関係者の間では「スウェーデンモデル」などともてはやされてきた。 

だが、近年になって、スウェーデンの教育制度に懐疑的な見方を示す人々が増えてきた。OECDが公表した2012年のPISAの統計データによると、スウェーデンのスコアはテストに参加したOECD諸国の平均値をも下回る結果であり、読解力を測るテストのスウェーデンの順位は2003年の8位から36位へと急落。こうした結果は、スウェーデン国内のみならず、世界各国の教育関係者に強い衝撃を与え、スウェーデンが長年世界に誇ってきた教育モデルの崩壊さえも囁かれるようになった。

 スウェーデンの学力パフォーマンスの低下の原因について、スウェーデン政府が推し進めてきた地方分権化を挙げる人々は少なくない。これまで、教育の地方分権化は個性重視の教育モデルに合った政策として支持を集めてきたが、近年になって、この地方分権化のデメリットともいえる教育政策上の失敗が目立つようになってきた。教育についての政府の関与が薄まったことで教育品質の低下が進み、地域間の学力格差等、深刻な問題が次々と起こり始めたのだ。1990年代以降、分権化の流れの中で教育部門の民営化も進み、それまで公立学校しかなかったスウェーデンにも、民間組織が管理運営する私立学校が設立されるようになった。加えて、教育政策の決定権限を地方に移譲すると同時に教育関連資金についても国税ではなく地方税から賄われるようになったため、地方税収入の多い比較的豊かな県とそうでない県との間での教育財政格差も徐々に深刻化していった。

 こうした教育制度上の問題に加えて、スウェーデンの教育関係者を悩ませているのが、移民問題だ。スウェーデンでは高齢化に伴う労働人口の減少に対応する形で、欧州諸国でも比較的寛容な移民政策がとられてきた。1970年代には、全人口の7%程を占めていた同国の移民率も、現在は15%を超えており、人口の10人に1人以上はスウェーデン国外で生まれた人々によって構成されている。スウェーデンの教育現場では、スウェーデン語が全く話せないか、もしくは殆ど理解することのできない移民の子供達と、他の子供達との間での学力格差が広がり続けており、移民率の高さもあって、学校レベルでは対応し切れない状態になっている。こうした背景から、これまでの分権化政策を改め、教育政策についての政府による管理の強化を訴える声が日増しに強まっていることは想像に難くない。もっとも、一部のスウェーデン人の中には、移民そのものを厳しく批判する者も現れるようになり、2007年7月に実施された国内選挙では、反移民政策を唱えるスウェーデン民主党が初めて国政に参加し20議席を確保、政権与党である中道右派4党の過半数確保の阻止に貢献している。 

更に、今年実施された欧州議会選挙においても、2009年に行われた前回選挙で1議席も確保できなかったスウェーデン民主党が2議席を確保し、スウェーデン全体の議席数である20議席の10%を占めるようになった。欧州各国では、移民政策が景気問題との関連で議論のテーマになることが多いが、スウェーデン国内では教育の質の低下と相まってより熱心な論争の的となっているのが現状だ。 

今回、ハルストハンマル市議会で提案された宿題禁止条例は、スウェーデンの民主的でリベラルな教育スタイルに合った、地方独自の教育制度改革の取り組みの1つといえる。最近になって、様々な問題点が指摘されるようになったスウェーデンの教育制度であるが、こうした教育上の課題に対する柔軟な解決に向けた姿勢は、これまでスウェーデンが様々な課題を乗り越えながら教育の質の向上を実現させてきた自己改善メカニズムの最も重要な下地になっているという点は間違いない。今後、スウェーデンが再度中央集権的な教育制度を採用するかどうかは現時点では分からないが、それでもスウェーデン国民にとって、教育関連のテーマが夕食中の話題から消えてなくなることはないだろう。

2014/07/06

集団的自衛権の必要性

安部首相は、7月1日の閣議で集団的自衛権を認める方針を固めた

今月1日に実施された臨時閣議で、安倍首相は集団的自衛権の行使を認める新たな憲法解釈を閣議決定した。これまで認められることのなかった集団的自衛権の行使が容認されたことで、日本の軍事的役割は大幅に拡大することになりそうだ。朝日新聞は、2日付の記事で、「安倍晋三首相は、その積み重ねを崩し、憲法の柱である平和主義を根本から覆す解釈改憲を行った」と報じ、戦後、専守防衛に徹してきた日本が、直接的な攻撃にさらされなくとも他国の戦争に参加できるようになったと強い懸念を示した。軍事的行使に関わる憲法解釈の仕方を巡って、激しい議論が繰り広げられているが、何よりもまず現行憲法、とりわけ戦争放棄を明記した9条と集団的自衛権の概念それぞれについて冷静な分析を加える必要がある。

日本国憲法が度々、平和憲法呼ばれる主たる所以は、侵略戦争を含めた一切の戦争と軍事力の行使や軍事力を間接的に用いた威嚇を放棄した点と、戦争放棄のために徹底した戦力不所持を明記した点、更に、国の交戦権自体をも否定した点の3点に集約されている。これまで、世界的に戦争廃絶に向けた血の滲むような努力がなされてきたが、いずれの平和主義的条約や憲法も侵略戦争の制限もしくは放棄に留まっていた。日本を代表する憲法学者の芦部信喜氏は、この点について、侵略戦争はもちろんのこと、「国権の発動たる戦争」を含む全ての戦争の放棄と、具体的な戦力と交戦権を全面的に否定したという点において、日本国憲法は「比類のない徹底した戦争否定の態度」を打ち出しているという見解を示している。

玉音放送を聴き、その場で座り込んでしまった人々

長い戦争の時代を経て、1945年にようやく終戦を迎えた日本。戦争がもたらす惨禍を嫌という程経験してきた当時の日本人にとって、戦争の全面的否定と平和維持に向けた取り組みは切実な願いだった。前述の芦部氏は、「日本国憲法が徹底した平和主義的思想を採用した背景には、国際的な動向のみならず、日本側の意向も反映されている」と述べており、GHQによる統治時代に首相を務めた幣原喜重郎氏が自身の強い平和主義思想をアメリカ側に示したことで、後の憲法草案として活用されたマッカーサー・ノートの1つのきっかけになったと分析している。

終戦後、日本国憲法はこれまで一度も改正されたことがないが、憲法条文の解釈の仕方については若干の修正が度々行われてきた。もっとも、憲法9条の解釈については、長らく個別的自衛権の行使に留まるとされていた。安倍首相が今回採用することを決めた新たな憲法解釈が特異である点は、自衛権の範囲を集団的自衛権にまで広げたことにある。だが、現行の憲法9条から集団的自衛権を持ち出すことに懐疑的な見解を示す人は少なくない。

■日本国憲法9条
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

改めて憲法9条を読み直すと、集団的自衛権はおろか交戦権すら認めていないようにも思える。実際に、自衛的な戦争を含むすべての戦争行為の放棄を意味していると解釈する見解もあるが、政府は、交戦権について、国際紛争を解決する手段としての戦争(侵略戦争)についてのみ制限されており、自国を他国による攻撃から守るための戦争(自衛戦争)は放棄されていないと解する別な見解をとっている。

現実的な意見として、自衛権までもを放棄することが安全保障上最も妥当な考えだとは到底結論付けることはできない。終戦以降、安全保障面においてアメリカとの結びつきを強化してきたという歴史的背景から、この平和的な憲法が、日本の平和維持が他国の軍事力に依存した他力本願で消極的なものであるという批判が度々なされてきた。一方で、前述の芦部氏は、日本国憲法が「平和構想を提示したり、国際的な紛争・対立の緩和に向けて提言を行ったりして、平和を実現するために積極的行動をとるべきことを要請している」としており、実際は決して消極的な考えに基づくものではないと指摘した。だが、こうした積極的な平和維持構想は、現実とは遠くかけ離れた理想主義的なものであるとしか言い様がない上に、自衛権に在り方についても明確な答えを示す訳でもない。

自衛隊は世界有数の作戦遂行能力を持つ実力部隊の1つ
残念なことに、日本の周辺各国の軍事予算は年々増強され続け、北朝鮮に至っては核兵器の基本的な運用能力があることを示そうと躍起になっている。日本も中国の軍事的影響力の強化や北朝鮮情勢に対応するために、これまで自衛隊の作戦能力向上のために多額の防衛予算を注ぎ込んできた。一方で、こうした自衛隊の強化は、韓国や中国からの厳しい批判に晒され、これらの国々もまた日本の軍事的脅威に対応するという名目で自国の軍事予算を増加させる口実を与えている。つまるところ、芦部氏の訴えた積極的平和維持は今のところ実現していないのだ。

人類は未だに究極的な平和を実現するための方法を知らない。日本国憲法が日本国民と政府に要請した積極的な行動を通じた平和維持構想の伝播は、成功には至っていない。仮に、憲法が求めた平和構想が直接的な戦火を交えない状態を意味するならば、日本に限っていえば辛うじて成功していると主張する余地があるが、未だ戦争状態にある朝鮮半島情勢や南沙諸島・西沙諸島への勢力範囲拡大意図を見せ続けている中国政府の姿を見れば、誰しも今の東アジアが完全なる平和を享受しているとは言えないはずだ。終戦から半世紀以上経過したにも拘わらず、このような緊迫した状況にあるのは、平和実現において日本の役割が全くもって十分でなかったことを意味すると解釈せざるを得ない。もっとも、東アジア情勢の不安定化の原因が日本だけにあるという訳では当然ないが、第二次世界大戦中多くのアジア諸国を侵略し兵士を含む多数の民間人の生活を脅かしたという史実と、憲法の制定過程における最も厳格な平和主義への追求が未だに活かされていないという事実は、真摯に受け取らなければならない厳しい現実であることには違いない。

こうした現実は、憲法9条を最も厳格に解釈し、自衛戦争さえも放棄したと解釈する人々の考え方が如何に妄想の上に成り立つおとぎ話でしかないのかという疑問を強める。周辺国が日本にとって軍事的な脅威であると考える余地がある以上、自衛権の否定は自国民の生命財産を守るという最も基本的な国の義務が果たせないことを意味する。結局のところ、現行憲法は自衛権までもを制限したものではなく、他国の脅威から自国を守るという目的での作戦能力は正当化されるという解釈の方がより現実的であり、論理的だ。だが、こうした考え方は、仮に今回問題となっている集団的自衛権や自衛権それ自体に必要とされる防衛力が、他国を侵略する目的の戦力とどのように区別されるかという新たな問題を生み出す。世界でも有数の性能を誇る航空機や潜水艦、加えて最新技術満載のイージス艦を保有する自衛隊に、他国に侵略戦争を仕掛ける能力が全くないと主張することには無理がある。つまり、自衛権を憲法解釈で認めるとすれば、自衛権行使に必要な戦力をどのように定義し、今の自衛隊の規模や作戦能力が自衛権を行使する上で最も妥当なものであるということを証明しなければならないが、これもまた殆ど不可能に近い話だろう。

政府は、こうした自衛権行使のための必要最小限度の実力について、「他国に侵略的な脅威を与えるような攻撃的武器は保持できない」としてきた。高性能なイージス艦や潜水艦は、政府が主張するには、他国に侵略的な脅威を与えない武器だという訳だ。こうした憲法の拡大解釈は、多くの場合、法的妥当性を十分に確保できない場合が多く、同様の点は集団的自衛権の行使についても同じことがいえる。

政府はこれまで、自衛権行使について3つの要件と呼ばれる制限を課してきた。自衛権を発動するためには、第一に、防衛行動以外に手段がなく、そのような防衛行動をとることがやむを得ないという「必要性の要件」、第二に、外国から加えられた侵害が急迫不正であるという「違法性の要件」、第三に、自衛権の発動としてとられた措置が加えられた侵害を排除するのに必要な限度のもので、釣り合いがとれていなければならないという「均衡性の要件」の3点だ。例えば、ある国が3日間の作戦行動で沖縄本島を空襲後、部隊を上陸させ、自衛隊員を含む戦闘員や民間人を多数殺害したとしよう。これに対して、日本側が自衛隊を派遣し、敵戦闘部隊を排除するといった実力行使が自衛権の発動となる。必要性・違法性・均衡性の3点全てを満たすことが、自衛戦争と侵略戦争を明確に区別する基準となる訳だ。

上述の自衛権は、集団的自衛権と区別するために個別的自衛権と呼ばれることが多い。個別的自衛権の場合、他国の攻撃の対象が、日本の領土や船舶、人員となることで発動でき、これは国連憲章51条でも認められた権利でもある。今回問題となっている集団的自衛権は、国連憲章で個別的自衛権が明文化された際に新設された比較的新しい権利だ。この権利について芦部氏は「他国に対する武力攻撃を、自国の実体的権利が侵されなくても、平和と安全に関する一般的利益に基づいて援助するために防衛行動をとる権利」としている。先程の例に当てはめると、沖縄を侵略しようと接近してきた某国の軍隊が、日本の接続水域内で米海軍の駆逐艦に遭遇、攻撃を加えた時点で、日本が海上自衛隊を派遣し、駆逐艦の援護と攻撃部隊への反撃を加えるといったシナリオが集団的自衛権の行使となる。

今回、政府は、従来の自衛権3要件に代わって新3要件と呼ばれる新たな基準を定めた。新3要件では、①我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合に、②これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がない時に、③必要最小限度の実力を行使することの3点が集団的自衛権を行使する上で必要とされた。

こうした憲法9条の拡大解釈による集団的自衛権の正当化を疑問視する声は強い。ただでさえ、積極的平和構想の実現に成功していない日本が、集団的自衛権までもを認めるとなると、そもそも憲法制定当時に目標とされた平和実現に向けた崇高な理想がなし崩しになってしまう。日本の憲法が、これほどまでに特有であった背景には、自衛権さえも批判すると解釈できる余地のある厳格な平和追求の姿勢にあった訳だが、他国が当然のように保有する集団的自衛権までもを日本が保有するとなると究極的な平和の実現はいよいよ理想のまた理想の世界へと旅立ってしまう。

賛成も反対も、決めるのは日本人自身だ
日本国民が、終戦後の厳しい生活を生き抜いた人々の意志を継がずに、武力を通じた平和維持へと舵をきるというのであればそれはそれで勇敢な選択というわけだ。だが、このような重要な問題は、安部首相が閣議決定で簡単に解釈できるというわけでもなさそうだ。戦争反対と叫ぶ集団的自衛権反対デモ参加者は、周辺国の軍事的拡大意欲の動機に今の日本があるという現実に直面しなければならない。その一方で、今回の動きに賛成する人々は、それ程までに激しく賛同できる程重要な問題であったからこそ、憲法の拡大解釈といった煩わしい方法をとるのではなく、正々堂々、憲法改正による集団的自衛権の明記を訴えた方が良いのではないか。

集団的自衛権を含む安全保障の議論は、日本国憲法を措いて議論されるべき論題ではない。今回の安倍氏の閣議決定は、集団的自衛権賛成派、反対派の双方に合理的な疑問を投げかける余地がある以上、問題があると結論付けられる。これほどまでに重要な問題を日本国民の民意を問うこと無く閣議で決めてしまうのであれば、せっかく衆参両議院を通過して無事に制定された憲法改正手続きを確定させるための改正国民投票法も今頃泣いているに違いない。

2014/06/23

止まらないW杯放映権料高騰の理由




日本にもそろそろ気持ちいい勝ち点3が欲しい。コートジボワール戦で悔しすぎる逆転負けを喫し、ギリシャ戦も勝利を掴めなかった。セカンドステージ進出の条件として、グループリーグ最終戦となるコロンビア戦の勝利はもちろんのこと、コロンビア以外の2チームに対して得失点差での優位性を確保しないといけない。厳し過ぎる条件であることに間違いないが、希望はまだある。

もっとも、日本中のサッカーファンと同等かそれ以上に、日本代表のグループリーグ突破を願っている人がいるのをご存知だろうか。それは、フジテレビとTBSの関係者。両社は、他の放送機関と共にジャパンコンソーシアムを通じてFIFAに巨額の放映権料を支払ったにも拘わらず、残念ながらグループリーグ初戦、第2戦、そして最終戦という全てのプレミアコンテンツの放映権を失っている。フジテレビとTBSは、それぞれセカンドステージ1回戦と準々決勝の放映権を確保しているものの、視聴率を伸ばすカギとなる日本代表のグループリーグ突破が厳しいことから、今頃冷や汗をかいているのかもしれない。

ジャパンコンソーシアムは、ワールドカップはもちろんのこと、オリンピック等、高視聴率を望めるスポーツコンテンツをひとつの会社の枠組みを越えて、各社共同で放送するための放送機構のこと。ワールドカップについては、2002年に日韓で共同開催した大会以降、FIFAに支払う放映権料を各社が分担し、ジャパンコンソーシアムとしてまとめて支払っている。

日本の場合、ジャパンコンソーシアムとFIFAの間に更に交渉役として、電通が存在している。だが、近年世界中で問題となっているのが、放映権料の高騰だ。1998年に開催されたフランス大会では、日本の放送局が国内で放送するための放映権料として約6億円を支払っていたが、その後の2002年の日韓大会では65億円、2006年のドイツ大会では160億円と回を追う毎に桁が増えている。ちなみに前回の南アフリカ大会では、その額はなんと250億円と見積もられており、そのうち100億円をスポーツ番組に力を入れていたスカパーがジャパンコンソーシアムとは別に支払っている。

出典:週刊東洋経済 (NHK報道)
これほどまでに放映権料が高騰してしまうと、もはや分担するメリットがなくなってしまう。もっと悪いことに、現在開催中のブラジル大会で日本の報道機関がFIFAに支払った放映権料は400億円を超えたとされ、今回ばかりはスカパーも入札を見送る始末。ワールドカップは、各局に巨額の広告料をもたらすが、コンテンツそのものの原価が高すぎると利益もすり減ってしまう。ましてや日本代表がセカンドステージへと進めないとなると、高すぎる放映権料は余りにも重い負担となるだけだ。

こうした放映権料の高騰は、実は2002年の日韓大会から変更された放映権料の入札方式に原因があるという。日韓大会以降、ワールドカップの放映権自体が、ドイツの民間企業であるアディダス傘下のスポリスという会社と、大手メディア企業のキルヒメディアという2社に売却され、事前に放映権料を決める方式から競売方式へと変更された。当然、世界中の放送局がワールドカップの放送権を巡って熾烈な戦いを繰り広げ、その結果、今のような放映権料の高騰という惨憺たる状況を生んだのだ。

もっとも、この話には続きがある。ワールドカップの放映権を得て、巨額の利益を放送各社から巻き上げる機会を得たスポリスとキルヒメディアであるが、後者のキルヒメディアはその権利を得た直後の2002年4月にミュンヘン地方裁判所に会社更生手続の適用を申請。7500億円を超える巨額の負債を抱えて破綻してしまうのだ。その一方で、スポリス側は電通と共同でスイスにISL(International Sports and Leisure)という会社を設立。その後、ワールドカップに限らず多様なスポーツコンテンツの放映権ビジネスで成功を収めてきた。

ここまで読めば、誰でも電通の立ち位置について疑問が浮かぶはずだ。

本来、放映権料について仲介役としての役割が期待されている電通は、ワールドカップの放映権を保有しているスポリスと緊密な関係を築くことで、巨額の利益を手にしてきた。つまり、電通にとって、ワールドカップの放映権料を下げるインセンティブが全く存在しないのである。ここからは全くの推論に過ぎないが、ジャパンコンソーシアム設立の背景には、こうした電通支配への抵抗のために、放送各社が連帯しなければならないという危機的状況が続いていたということも考えられる。とはいえ、その戦いはジャパンコンソーシアムの敗北に終わった。既に指摘した通り、放映権料の高騰は依然として勢いを増している。 実は、放映権料を含むFIFAのビジネスモデルに対する疑惑は、大手経済誌ForbesのKelly Phillips Erb氏が既に記事で指摘している。 放映権の他にも、FIFAが大会開催国に対して、法人税や所得税、消費税等、ありとあらゆる税金の支払いを免除するよう求めていることなど、様々な疑問が提起された。

英紙サンデー・タイムズは、FIFA理事が票の見返りに金銭を要求したと報じた
FIFAは、サッカーのゲーム性の向上のみならず、サッカーのもつ人間的、文化的、教育的価値をとりわけ途上国に生きる若い世代に向けて発信するために設立された組織。設立当初はヨーロッパ7カ国のみで構成されていたFIFAは、今や209もの各国サッカー協会を中心としたメンバーが加盟している。サッカー界の国際連合と称えられるFIFAだが、運営に直接関わる人々は数百名だけの比較的小さな組織だ。その小さな組織の裏で、今もなお進められている巨額のマネーゲームは、ワールドカップの試合中継とは違って、多くの注目を浴びないままだ。

2014/06/11

銃と麻薬とカーニバルの街、リオデジャネイロへようこそ

ファベーラで暮らす人々

1930年に最初のワールドカップがウルグアイで開催されてから84年目を迎える今年、記念すべき20回目の大会が同じく南米のサッカー王国ブラジルで行われる。2年後の2016年には、南米初の夏季オリンピックの開催も予定され、ブラジルは世界で最も注目を浴びている国のひとつとなっている。なかでも、ブラジル第2の巨大都市リオデジャネイロは、開催直前を迎えたワールドカップやオリンピックの中心地としてかつてない程の活気と期待に満ち溢れている。

人口600万人、都市圏全体では1200万人近い人口を抱えるリオデジャネイロは、サンパウロに次ぐブラジル第2の都市として有名だ。グアナバラ湾に面して形成された都市は、世界でも最も美しいと称される砂浜やコルコバードのキリスト像等でも知られる。陽気な住民であると同時に敬虔なキリスト教徒でもあるリオの人々の生活は、その実態を知れば知るほど興味をそそられるという。

リオの人々は、他の多くの発展途上国で暮らす人々がそうであるように、2つの全く異なった空間のうち、どちらに住んでいるかという違いでその生活実態は驚く程異なってくる。一方はアスファルト(Asphalt)と呼ばれ、国内でも最も経済的に恵まれた人々のための場所。そして、もう一方はファベーラ(Favela)と呼ばれるスラム街。そこには何百万人もの人々が貧困ラインよりも遥かに下回る極貧の生活を送っている。

ファベーラに住む人々に言わせれば、ブラジルに訪れる外国人観光客が愛する壮麗なビーチや整備されたホテル、高所得者層向けの高級レストラン街の並ぶアスファルトは、リオの一部でしかない。アスファルトの煌めきの陰に隠れたファベーラにこそ、リオ本来の姿があるのだという。そんなファベーラの存在は、観光客はおろか自国の政府からも無視され続けてきた。少なくとも、ワールドカップの開催が決まるまでは。

ファベーラの町並み

リオデジャネイロでは今、2つの世界的なスポーツの祭典に備えて急ピッチでスタジアムの建設や主要な道路舗装化工事などの都市開発が進められている。ブラジルにとって、ワールドカップとオリンピックの主催はまたとないアピールの機会。莫大な開発事業に併せて国外からの投資も進んでおり、それらの経済効果は測り知れない。だが、ファベーラに住む人々にとっては、穏やかな話ではない。1970年代の軍政権時代から散発的に行われてきた浄化作戦という名の土地再開発事業(Pacification)は、多くのファベーラ住民の生活領域を脅かしてきたが、ワールドカップに向けた準備が本格化する中、その頻度が急激に増加している。とはいえ、ファベーラにも政府の動きに抵抗する上での十分な力があり、開発事業は順調には進んでいない。

ファベーラは、警察や行政府の影響すらも受け付けない場所だ。多くのファベーラは、地元の麻薬組織によって徹底的に管理され、ファベーラ内の取り決めは全て組織によって定められている。リオは世界でも最も殺人率の高い危険な街としても有名だが、こうした凶悪犯罪の発生率は、ファベーラへと一歩足を踏み入れることで何倍、何十倍にも高まってしまう。だが、不思議なことに、多くのファベーラがそうであるように、どこも表面的には秩序だった安全そうな街に見えるのだ。

麻薬組織は決してファベーラの住民を意図的に傷つけようとはしない。あくまでもファベーラ毎に定められたルールに従って住民を取り扱っている。ルールを破った者には相当の罰が与えられるが、住民はルールさえ守れば、麻薬組織によってファベーラ内での安全を担保することができる。こうした麻薬組織とファベーラの人々との間の信頼関係が、ファベーラを安全で活気に溢れた場所のように見せている。

ファベーラでは、当然のように拳銃や自動小銃、そしてコカインから大麻までのありとあらゆるドラッグを目にすることになる。麻薬の多くは隣国コロンビアからもたらされ、ファベーラの住民がこれらに依存することで、組織へと金が流れる仕組みだ。末端価格でも数百円から千円程度で手に入れることのできる麻薬は、既に金銭的に困窮しているファベーラの住民ですら手の届く品物となっている。

麻薬同様に有名なのが、麻薬組織主催のダンスパーティー、バイレス(Bailes)だ。バイレスは夜通し行われ、飲食品や生活用品の販売等、ファベーラ住民の小規模ビジネスを支える重要なイベントであると同時に、組織にとってもドラッグを売りさばく絶好の機会をもたらしている。バイレスには、ファベーラ中の人々が集まり、酒とドラッグを手に日が昇るまで踊り続ける。ダンスをこよなく愛するファベーラ住民の日常は、ブラジルの伝統であると同時に、こうしたファベーラでのダンスイベントがサンバやマルシャ等世界的に有名な踊りを生む下地となった。

踊りはファベーラの人々にとって重要な文化のひとつ
麻薬や拳銃等といった言葉を聞くだけでも相当に物騒がしい印象を受けて当然なのだが、実際のところ、ファベーラ内には強い共同体意識が存在している。それはまるで古き良き昭和の日本社会でもあるかのような、誰もが他人を助けあう社会。ファベーラ住民は、限られた資材で家族のための家を協力して建てたり、働きにでる母親の子供の面倒をみたりする等、互いに頼り合うことで貧しい生活状況を乗り越えているのだ。

リオのファベーラを襲うパシフィケーション(再開発計画)の流れは止まりそうにない。政府は、これまで以上に警察の動員回数を増やすことで、スラム街の一掃を目論んでいる。だが、ファベーラの武装麻薬組織の存在は、問題の解決をより困難なものにしている。今年4月には、なかなか進まないオリンピックのためのスタジアム等の関係施設の建設事業の進捗状況に対して、IOCの副会長であるジョン・コーツ氏が「最悪だ」と直接的な表現を用いて強い懸念を示した。

警察と麻薬組織との対立の最大の被害者はファベーラ住民

踊りと同様にサッカー等のスポーツも愛するブラジルの人々にとって、ワールドカップやオリンピックの開催日は待ち遠しいものだ。だが、ファベーラ住民にとっては、自らの住み慣れた土地がなくなるかもしれないということもあり、複雑な心境である。市街地では大規模な抗議デモが発生し、警察当局が催涙ガスやゴム弾で対応する等、緊張が高まっている。これまで以上に警察と麻薬組織との対立が高まっていることで、ファベーラ内でも銃撃戦が頻発し、死者も少なくないという。

ワールドカップやオリンピックは、南米一の経済大国であるブラジルを更なる飛躍へと導く重要なイベントであることには間違いない。だが、世界のスポーツファンが興奮してやまないこれらのイベントの背景には、ファベーラの住民のように開発事業の陰で苦しむ人々がいることもまた現実なのだ。

2014/06/03

グローバリゼーションはテロリズムの根源か



ナイジェリア北東部に位置するボルノ州で、4月15日未明に200名以上もの女子生徒が誘拐された凶悪なテロ事件の発生から1ヶ月半余りが経過した。一部の生徒は、犯行グループの隙をついて脱出に成功しているものの、依然として多くの生徒が死の危険と隣合わせの悲劇的な環境下に置かれている。最新の報道では、ナイジェリア軍が既に犯行グループであるイスラム過激派「ボコ・ハラム」のメンバーと誘拐された女生徒の所在地を把握しているとされているが、重武装の犯行グループが支配する地域には軍でさえも不用意に近付けず、文字通り、手も足も出ないのが現状だ。先月、ボコ・ハラム側が公開したビデオ映像(http://www.bbc.co.uk/news/world-africa-27583030)には、誘拐された女生徒とみられる数十名もの少女の姿が撮されており、少なくとも誘拐された少女の多くは命に別状はないとみられているが、詳細は未だ不明のままだ。


今回の誘拐事件に関与しているイスラム過激派「ボコ・ハラム」は、西洋の教育は罪という意味を持つ。「ボコ(Boko)」は、地域語のハウサ語で欧米等の西洋諸国の教育システムを指し、「ハラム(Haram)」は禁忌を示す語句。「ボコ・ハラム」と いう名称は、組織の正式名称である「宣教及びジハードを手にしたスンニ派イスラム教徒としてふさわしき者たち(Jamāʻat Ahl as-Sunnah lid-daʻwa wal-Jihād)」よりも広く知られた通称的な名称だ。2002年に設立した「ボコ・ハラム」は、イスラム教の影響力の強いナイジェリア北部を中心に、隣国のカメルーンやニジェールにも版図を広げている。2009年以降、ナイジェリア国内だけでも2000名以上もの殺人や誘拐事件を引き起こしたとみられ、残虐性の強い武装組織の1つとして知られる。 古くからのキャラバン貿易の影響で、ナイジェリア国内ではイスラム文化が広く浸透してきたが、ポルトガルやイギリス等の西洋諸国による植民地時代を経て、海岸に面した南部州を中心にキリスト教徒も多く存在している。こうした背景から、イスラム教徒が大半を占める北部州とキリスト教徒中心の南部州との間での宗教的対立が頻発しており、国内の石油資源の恩恵を比較的大きく受けてきた豊かな南部と経済発展に取り残されてきた北部との経済格差の問題も相まって、国を南北に二分する複雑で熾烈な地域対立が続いてきた。

「ボコ・ハラム」が此程までに欧米型の教育制度に拒絶感を示すのは、旧宗主国による非人道的な奴隷交易と一方的な資源搾取の歴史への抵抗ともみられているが、多くは、第二次世界大戦以降、急速に進むグローバリゼーションに対するカウンターアクションとしてのテロ活動と分析している。ナイジェリアは、国内に存在する豊富な石油資源を中心とした天然資源の輸出で多額の利益を上げてきたが、欧米を中心とした先進国の支配する国際市場で真っ当な対価を得てきたとは必ずしもいえない状況にあった。天然資源に依存した石油価格の変動に左右されやすい経済構造に加えて、前述した地域対立等の脆弱な社会構造の影響もあって、1967年と1981年にはそれぞれ-15.7%と-13.1%もの深刻なGDPのマイナス成長を経験した。

「ボコ・ハラム」を含むイスラム過激派にとって、グローバリゼーションは不要な混乱と崇高なイスラム文化を汚す悪魔でしかない。暴力的な手段に訴えてでも、日常世界の規範であるイスラム教の教えを守り、伝統的な生活様式を維持しようとする動きは、ナイジェリアに限ったものではない。こうした地域に根付いた文化の保護と伝統的・宗教的価値観の維持といった目的は、世界各国で活動を続ける過激派組織のテロ活動の動機付けとして主要な役割を果たしてきた。国際政治学の世界においても、各地で頻発するテロリズムの要因を文化的価値観と経済的格差の2つの視点から解き明かそうとする動きが主流となっている。立場が変われば、人々の生活水準を大幅に向上し、これまでになくヒトとモノの国際間移動を発達させてきたグローバリゼーションのメリットも、長らく人々の生活を支えてきた文化的・宗教的価値観の弱体化と情け容赦ない欧米化といったデメリットの性格を強めることになる。

グローバリゼーションを脅威を捉える人々にとって、暴力は、欧米の圧倒的な物質主義的文化に対抗し、自らの精神的支柱となってきた文化的価値観の保護を達成する上での唯一の手段となる。もっとも、「ボコ・ハラム」を含むイスラム過激派が抱える最大の矛盾は、本来保護の対象となるべきイスラム教徒が、その暴力的な手段の最大の被害者となっている点だ。パキスタンやインド、中東諸国等で多発する一連のテロ事件で死者の大半はイスラム教徒であることに異論はないだろう。

今回、「ボコ・ハラム」が引き起こした誘拐事件は、対象となった女子生徒の通う学校がキリスト教系であったために、被害者の大半がキリスト教徒であるが、教師の証言では、誘拐された生徒の一部にイスラム教徒も含まれていたという。「ボコ・ハラム」が公開したビデオの中で、武装組織のメンバーが誇らしげに「全てのキリスト教徒を本来あるべきイスラム教徒へと改宗させることに成功した」と訴えるシーンもあるが、組織全体が根本的に抱える矛盾と破綻した論理に直面できる日が果たしてくるのだろうか。

西洋の教育を厳しく否定したボコ・ハラムは、女生徒に対しては教育そのものを取り上げようとしている。武装組織の影響を強く受ける北部では、コーランの授業しか取り扱わないイスラム系の学校も少なくない。少なくとも、ナイジェリアが今後安定した経済成長を達成する上で必要不可欠となる英語や数学に長けた人材の育成機会が大きく失われていることは、ナイジェリアにとって耐え難い損失となるだろう。そもそも、経済的に恵まれない北部でこうした偏った教育制度を続ければ、今後ますますその格差が広がってしまうことは想像に難くない。

知性と学びの欲求を肯定するコーランの教えさえも踏みにじるイスラム過激派の曲折した宗教解釈は、アフリカで最も可能性に秘めた国の1つであるナイジェリアの未来を狂わせかねない。悲劇的なのは、「ボコ・ハラム」によって高度で広範な教育の機会を失ったナイジェリアの若者達もまた、「ボコ・ハラム」のメンバーとして更なる破壊活動へと加担してしまっているといった悪循環だ。伝統的な文化を守り、維持していくという考え方自体は尊重されるべきものだが、本来の目的と教義に反しながら暴力的な手段に打って出る行為に、一体なんの意味があるといえるのだろうか。

眠れない日々を送る誘拐被害者の両親らの願いが叶い、無事に彼らの娘を取り戻せる日が訪れることを祈りたい。