たいらくんの政治経済。

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2014/04/28

死刑制度の考え方



エジプトの裁判所は4月28日付で、ムハンマド・モルシ前大統領の支持母体であるムスリム同胞団の最高指導者、ムハンマド・バディア氏を含む683名の同胞団関係者に死刑を宣告。既に身柄を拘束されている50名を除く大半の関係者が未だ逃亡中の状態での裁判は、529名の大統領支持派に死刑を宣告し国際的な非難を浴びた前回の裁判に引き続き注目を集めている。民主化運動の過程で混乱状態が続いたエジプトでは、独裁国家時代の「悪人」の処遇を巡っての論争が止まらない。

国ごとに司法制度は異なるが、最も厳しい刑罰である死刑の定義は然程漠然としたものではない。仮に、死刑を「特定の罪を犯した人を、適正な司法手続と公正な判決に従い、国家が主体となって処刑する刑罰」と定義すれば、これは全く珍しいものではない。しばしば話題となるのは、刑罰としての死刑をどのように解釈していくかという問題。人権重視の動きから死刑制度を廃止する国が増える中で、死刑を存置する国も死刑を廃止する国も、死刑制度そのものをどのように正当化・不当化するのかという議論は、未だ双方とも十分合理的といえる結論に至っていない。

アムネスティ・インターナショナルは先月、2013年の世界の死刑執行状況についての報告書を公開。それによれば、これまで減少傾向にあった死刑執行が、2013年になって15%増加。死刑執行を受け、処刑された人の数が100名以上増えたという。アムネスティが各国政府の公式資料をまとめたところ、イラン(執行数369件以上)とイラク(169件以上)の中東2カ国がそれぞれ死刑執行数上位を占めた。一般に、世界で最も死刑を執行しているといわれる中国の場合、公式な統計資料がないため数値はあくまで確実性を欠いた予想の域を出ない。

アムネスティのような人権団体はもちろん、多くの欧州諸国でも死刑を「国家による殺人」として非難する声が強まっている。欧州を中心に、世界141カ国で死刑制度そのものを廃止もしくは事実上の廃止(死刑執行の停止)とする国が増える一方で、日本を含む死刑存置国の中には、国民レベルで制度を強く支持する国も存在する。政府資料で国民の8割近くが死刑制度を支持していることが判明している日本では、昨年、奈良小1女児殺害事件や大阪連続強盗殺人事件の犯人を含む8名の死刑囚の刑が執行がされている。

死刑廃止派の多くは、以下3つの考えに基づいてる場合が多い。1つ目は、「命の価値」である。誰にとっても人の命は貴重なもの。廃止派の中には、例え凶悪な犯罪者であっても、その命には他の命と全く等しい価値があると主張するものもいる。2つ目は、「生きる権利」。日本国憲法を含む多くの国の憲法は所謂「生存権」を明文化した項目が必ずといって良いほど含まれている。人として生まれた瞬間から人は生きる権利を保有するが故に、例え重罪を犯した人であっても生きる権利までも奪うことはできないといった主張が代表的だ。最後に、「冤罪の可能性」。世界で最も優秀な警察組織と高い有罪率を誇る検察、公正な司法制度を誇る日本であってもかつて死刑を宣告された人の中で後に冤罪が発覚したケースが少なくない。十分な司法手続のない国においてはとりわけ死刑制度の問題点が最大化されやすい。

他にも、「犯罪者の一部には全く更生余地のない」と考えられることや存置派が度々訴える「死刑制度の犯罪抑止力」の否定、「死刑に係る経費の高さ」等を挙げる場合もあるが、これらは比較的根拠に欠けると考えられている。とりわけ死刑に係る経費については、1995年に米国オクラホマ州で発生した連邦政府ビル爆破事件の主犯、ティモシー・マクベイ死刑囚の刑執行に総額13億円近い費用がかかったことを例に挙げる場合があるが、必ずしも全てのケースに適用されるとは言えない上に、死刑以外の刑罰の費用とに有意な差があると結論付けるのは少し無理があるようにも思える。

一方で、存置派の多くは、「社会的報復としての機能」や死刑制度がもつ「犯罪抑止力」、「究極的な更生方法」としての死刑、「再犯可能性の除去」等に基づく。社会的報復としての機能は、恐らく存置派の主張の中で最も明確なものの1つだろう。目には目をで有名なハンムラビ法典の根本原理にもあるように、殺人のような凶悪犯罪を犯した人物が、適正な法手続を経た上で死刑となるのという点に全く問題はないと存置派は言う。だが、仮にハンムラビ法典により正確に従うとすれば、一人を殺した人は死刑に値すると言えるものの、強姦や国家反逆罪、その他考え得る他の凶悪犯罪についての処遇には議論の余地がある上、殺人を犯した犯人を処刑することは、殺人を殺人で咎めてることになってしまう。もっとも、報復としての機能自体については廃止派すら理解している。その上で、廃止派は刑の本質的な残虐性や不可逆性へと論を展開していく。

とりわけ興味深いのは、死刑を「究極的な更生方法」や「再犯可能性の除去」の手段としてみる後者の論理だろう。死刑囚の中には、執行日に涙を流す者もいるという。死刑を目前にした恐怖とも考え得るが、元刑務官らの証言等には自らの罪を悔い改める者も少なくないという。その意味で、死刑を最後の更生機会として捉えることができると存置派は信じている。加えて、凶悪犯罪者を処刑することでそれ以上の危険を除去することができる。再犯可能性の除去として効果を持つと訴える人の中には、長期刑の囚人が短期刑の囚人と比べ刑務所内での暴力的なトラブルが多いことや仮釈放後の再犯率が高いこと等も根拠としている。存置派の多くが、死刑に更なる犯罪発生を抑止する効果があると述べる一方で、廃止派は死刑の犯罪抑止力は限定的か、全くないと主張する。これまで様々な統計調査や社会学的アプローチ等で死刑の犯罪抑止力について研究が行われてきたが、今のところ、死刑に犯罪抑止力があるともないとも言えないのが現状だ。一部の国では死刑廃止後犯罪率が低下したケースもあるが、その逆のケースもある。死刑制度と犯罪の関係性を証明することはそう簡単ではない。

エジプトの集団裁判での大量の死刑宣告や、度々メディアで報道される信じられない程残虐な凶悪犯罪の発生は、死刑制度自体を再考する良い機会となる。死刑を廃止するべきだと考えるのであればなぜ廃止するべきなのか、死刑を存置するべきだと考えるのであればなぜ存置するべきなのか、こうした議論に思考を巡らせることには十分な価値があるだろう。ちなみに、メリーランド大学の教授が行った調査に、凶悪犯罪の裁判映像を観た被験者と死刑制度の残酷さを訴える映像を観た被験者で死刑制度の是非を問うたものがあるが、結果は前者の半数以上が死刑制度を支持する一方で、後者は8割以上の人々が死刑反対の考えを明確にしている。

結局のところ、犯罪を身近に経験する者ほど死刑の有効性を認識しやすい一方で、制度そのものの残虐性について学べば学ぶ程疑いの目が強くなるということだろうか。犯罪率が極めて低い日本で、これほどまでに死刑が支持される背景には、国民の死刑制度そのものへの信頼の高さと凶悪犯罪者への社会的非難の強さがあるからかもしれない。どちらの立場に立っても、犯罪そのものが非難に値する反社会的行為であること自体は変わりない。

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