たいらくんの政治経済。

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2015/04/08

リスク社会と再帰的近代化

更なる原発事故を防ぐためには適切なリスク評価が必要不可欠

福島原発事故以降、日本の原子力政策は抜本的な見直しが行われているが、事故発生から4年目を迎えた今もなお、最も深刻な被害を受けた福島県内だけでも未だ7万人以上もの人々が避難生活を余儀なくされている。その一方で、政府は既に再稼働している関西電力の大飯発電所に加えて、四国電力の伊方発電所を含む国内複数箇所の原子力発電所についても安全性が確認され次第、順次再稼働していく方針を示した。昨年政府が発表したエネルギー計画案にも、原発は重要なベースロード電源と位置付けられており、再稼働を進めることも明記されている。ここ最近の原子力発電所の再稼働は、既に計画されたエネルギー政策の一環という訳だ。

長らくの間、外国産の資源で大半のエネルギー需要を満たしてきた日本にとって、原子力発電は半純国産ともいえる夢のエネルギー源だった。1960年に国内初の商業用原子力発電所である東海発電所の着工が始まって以来、日本各地で商業用原子炉の建設が進められていった。当初はイギリスやアメリカの原子力技術に完全に依存していたものの、次第に日本独自の技術も活用され始め、東芝や日立、三菱重工等の日系企業は今や世界的な原発メーカーとしての絶対的な地位を固めている。原子力が半純国産のエネルギーと呼ばれる背景には、こうした日系企業の高い技術力と比較的少量の輸入ウランで膨大なエネルギーを生み出せるという原子力発電の特徴に依拠している。

原子力発電は、高い技術力を誇る一方で慢性的な国産資源の不足に直面していた日本にとってまさに理想的な発電方法だといえる。福島原発事故で甚大な被害を被ったにも拘らず、依然として再稼働に固執する政府の意図は、これまで地道に培ってきた原発関連技術と関連事業への莫大な投資を無駄にしたくないという技術的・経済的な一面と原子力発電所が生み出すエネルギー安全保障への無視し難い貢献という安全保障的な一面からそれぞれ読み解くことができそうだ。だが、福島原発事故というチェルノブイリ事故に匹敵する原子力事故の発生を受けて、日本の原子力政策を組み立てていく上で必須となる新たな一面が注目を浴びるようになった。

それが、「リスク」というわけだ。

経済評論家でブロガーの池田信夫氏は、自身のブログで「反原発文化人がよく使う言葉に、ウルリヒ・ベックのリスク社会がある」と述べた上で、ドイツの社会学者であるベックが1986年に著した"Risikogesellschaft"が日本語版では危険社会と訳されていることに疑問を呈した。リスクとは確率的な期待値であって、危険とは違うと池田氏が続ける。リスクと危険(danger)の用語上の違いについては、"Risk-and-Society"の著者であるロンドン大学のデイヴィッド・デニー社会学教授も同様な指摘をしている。ちなみにベックは、リスク社会を「近代化によって誘発され、もたらされた危険および不確実性に対処する組織的な方法」と定義しており、言い換えれば、近代化のプロセスは未曾有の危機を生み出し、そうしたリスクを常に創出する社会では常に未経験のリスクに対処しなければならない状態が続くともいえる。

ちなみに池田氏は、ベックの著作が「チェルノブイリ事故を受けて書かれたもの」としているが、これは誤りで、ドイツ語の原著が出版されたのはチェルノブイリ事故の直前であり、原著にはチェルノブイリ事故という語句は含まれていない上に、原発事故については原著第一章の富の分配とリスクの分配の論理の1ページに軽く触れられている程度だった。とはいえ、ベックは原発事故の特徴として、それは数世代にわたって影響を及ぼし続け、その影響は事故発生後に事故現場から離れた場所に生まれた子にさえも及ぶとした上で、原発事故はこれまで科学や法制度が築き上げてきたリスク計算の概念を崩壊させると指摘した。事実、このような原発事故の長期的で地球規模の悪影響は、リスク概念を一変させた。チェルノブイリ事故発生以降、なかなかソビエト連邦政府が情報を公開しなかったことに対するアメリカ下院の非難決議案の提出を含む各国政府の苛立ちは、適切なリスクマネジメントと迅速で正確な情報の公開の重要性を喚起させた

はずだった。

チェルノブイリからちょうど四半世紀後に発生した福島原発事故後の民主党政権の対応は余りにも稚拙で場当たり的なもので、折角莫大な予算を投じて作り上げた緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(通称SPEEDI)も十分に活用されなかった。政府と日系企業の原子力政策への絶対的な信頼と、大規模原発事故を技術大国である日本には無縁なものだとした過剰な自信は、リスクマネジメントの重要性を過小評価させた。事故後に国会等でまとめられた事故調査報告書には、原子炉の電源喪失時に用いられる臨時電源ユニットの配置場所が悪く、津波で臨時電源ごと海水に浸かったことが明らかにされている。技術大国としての自負と原子力政策がもたらす技術的・経済的・安全保障的メリットに目が眩み、リスクという重要な視点を失ってしまった結果が福島原発事故だといえる。

だが、その後全国各地で反原発運動が実施されたことや、原発ゼロというこれまでの原子力政策を反転させる公約を掲げる政治家が増えたように、リスクにはそれまでの近代化プロセスを修正する機能ももつ。ベックを含む社会学者はこうしたリスクのもつ修正機能を再帰的近代化(reflexive modernization)と呼んだ。未曾有の危機をもたらす新しい科学技術に対するリスク認識は、技術発展の軌道そのものを変えうるという訳だ。かつての公害被害が環境保護への取り組みを強化させたように、原子力技術に内在するリスクは、原子力政策そのものを変えうる力を持つ。重要なのは、長期的な視点で原子力が人類社会にとって利益となりうるか正しく見極める必要があるということだ。既にヨーロッパの一部の国では、原子力を捨てて再生可能エネルギーの普及に舵を切ったケースもある。

もっとも、危険性を孕む科学技術を早々に見捨てて諦めることがリスク回避に繋がるとは必ずしもいえない。今後、日本が国産のエネルギー源を生み出さない限り、エネルギー安全保障上外国産の資源輸入に重依存する需給構造は深刻なリスクを生み出す上、経済的な負担も決して軽くない。ベックと同様にリスク社会という概念の発展に多大な貢献を果たしたイギリスの社会学者アンソニー・ギデンズは、「積極的なリスク負担(risk-taking)は、動態的経済と革新的な社会の実現の核心的要素となる」と述べている。使用済み核燃料や大規模事故発生時の放射線問題等、様々なリスク要因をもつ原子力発電だが、こうしたリスクを適切に認識した上で、問題解決のためにより安全で信頼性の高い技術を生み出すことは、大きなメリットになり得る。

リスクをゼロにすることは不可能に近いが、積極的なリスク負担の姿勢は技術革新を促進させ、リスク軽減の実現へと歩を進める機会を与える。日本の原子力政策も今まさにこの状態にあるといえるのではないだろうか。感情論的に反原発を掲げるのでもなく、経済的メリットだけで原発再稼働を訴えるのでもなく、十分にリスク認識の意識を高めた上で、適切なリスク計算に基づいた結論を導き出せれば、それは日本社会にとって長期的なメリットとなるだろう。

仮に、このまま原子力を重視するのであれば、既存の原子力発電所の安全性評価はかつてないほどに厳しく適切な水準に高めなければ、新たな原発事故を引き起こすという最悪の結果を招きかねない。単に原発の安全性だけにリスク評価の幅を狭めるのではなく、関連する様々な問題(例えば、使用済み核燃料の再処理や安全な保管方法の開発)についても適切なリスク評価の視点を当てなければならない。既に日本では金属燃料高速炉と使用済み核燃料の乾式再処理という新技術で革新的な核燃料サイクルシステムの開発が進められている。この技術が実現すれば、廃棄しなければならない放射性物質の量を大幅に減らすことができる上に、エネルギー自給の問題にも大きな改善がみられることになる。他にも、現行の核分裂を基礎とする原子炉とは全く原理の異なる核融合炉の開発が進められており、実現すれば理論的に臨界状態に達することがまず期待できない安全で核分裂炉よりもはるかにエネルギー効率の良い原子炉が登場することになる。

また逆に、原子力に頼らないエネルギー需給構造に転換するとすれば、再生可能エネルギーへの積極的な投資と技術開発の促進、東芝やトヨタ等一部の企業が積極的に進める水素社会への実現に向けた国をあげたサポート体制の構築、そもそものエネルギー需要の更なる効率化等、原子力の安全性追求と同等かそれ以上の技術革新とリスク管理が必要となる。いずれにせよ、日本社会にとって長期的にメリットとなり得る道を選ばなけれなならないことには変わりない。

福島原発事故は、日本もリスク社会の一員であるという無視できないメッセージを残した。ギデンズが主張したリスク社会のポジティブな側面を活かすためには、適切なリスク評価に基づく積極的なリスク負担の姿勢と技術革新への絶え間ない追求の両者が必要不可欠となる。

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